セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943) 交響詩《死の島》

 

ラフマニノフの三つの顔

作曲した自分の作品に対し、指揮やピアノを演奏するなどして演奏家として接することも多かったラフマニノフ。さらに欧米に移住した後は、自作をホロヴィッツといった優れた演奏家が手がけることを耳にすることが多くなった。つまり、ラフマニノフは自作に対して、作曲家・演奏家・聴衆という、三つの違う姿で関わった作曲家でもあった。ラフマニノフは自作に対し、非常に多く改訂を行った作曲家でもあったのだが、これはラフマニノフのこうした三つの顔にも由来している。
この《死の島》も同じくで、実はラフマニノフが指揮をした自作自演の録音が残されている。この自作自演録音に関しては前稿をお読み頂きたいのだが、ラフマニノフの改訂にはこの三つの顔のどれかが各々関わっており、どの改訂にもそれぞれの立場からの真実が込められているという。単純に後の改訂がより作曲家の真の意図を込めたもの、とみなすことは出来ない。

《死の島》も、譜面として残された形と自作自演で残された形とでは、少なからず違いがあるが、そのどちらにも、その時々のラフマニノフの音楽が込められている。

「怒りの日」

前掲のとおり、ラフマニノフは作曲に集中するためドレスデンに居を構えていた時期があった。《死の島》はその時期の作品である。1909年の作曲。ベックリンの絵を見て着想を得て作曲したものなので、ある意味、純粋な音楽的衝動の発露であると言えよう。

音楽はゆったりとした5拍子で進む。暗い、陰鬱なイメージ。古今東西、芸術家は「死」をモチーフとして様々な作品を創り上げてきた。ラフマニノフのこの作品もそんな中の一つであり、ラフマニノフが普段から特別に「死」に魅せられていたわけではない。むしろ、ラフマニノフはエネルギッシュで活動的な人物であった。しかし、ラフマニノフには一点、死をイメージさせるもので拘っていたものがあった。「怒りの日」である。

「怒りの日」とは、カトリック教会に伝わるグレゴリオ聖歌の一つで、死者を弔う聖歌。この聖歌の旋律を、禍々しく変容させて自作の《幻想交響曲》に魔女のイメージを喚起させるものとして使用したのがベルリオーズ。それ以来、クラシック音楽では、「怒りの日(ディエス・イレ)」の旋律を、死や悪魔といった禍々しいものの象徴として使用することが頻繁に行われるようになった。ラフマニノフは特にこれがお気に入りだったようで、晩年に至るまで多くの作品のなかでこの「怒りの日」のモチーフを使用している。死を題材にした《死の島》の中で「怒りの日」を引用することによって、明確なイメージを音楽の中に刻印付けることになるのだが、面白いことに、ラフマニノフがグレゴリオ聖歌の「怒りの日」を聞いたのは、欧米に移住した後の1930年代のことであるらしい。それまでのラフマニノフは、先人たちの使用した文脈に沿って「怒りの日」を使用しているのだが、それ以降の作品では、さらに明確な意図をもって「怒りの日」を使用している。1900年代の作品である《死の島》での「怒りの日」は、あくまで先人たちの使用した文脈に沿っての使用だったことは、注意しておく必要があるかもしれない。

《死の島》は暗く陰鬱なイメージが立ち込める作品ではあるが、同時にロマンチックな、溢れるような詩情を思わせるラフマニノフ特有の歌心をもまた痛切に感じさせる。オーケストラの編成は大きく、ホルンは6本という、交響曲第2番の4本よりも多い数が必要とされている。当時は、ワーグナーから始まってマーラー、R.シュトラウス、そしてモスクワ音楽院で同級生であったスクリャービンが展開したような巨大な編成のオーケストラを使用し、譜面を音符で埋め尽くすやり方が「流行り」でもあったのだが、ラフマニノフもこの潮流に乗った様に思われる。晩年に近づいた頃のラフマニノフの作品、交響曲第3番や《交響的舞曲》では、一転、膨れ上がったものを削ぎ落としたかのような印象があり、それまでの作品とは大きな違いを感じさせる。

ロシア革命を避けロシアを出国したラフマニノフ。結局、それ以降のラフマニノフはロシアの地を踏むことなくその一生を終える。しかし、ラフマニノフは常に故郷を思い続けた。政治体制が変わりソ連となった以降も、ラフマニノフは祖国のことを気にかけ続けた。ロシア出国者の中で比較的成功した部類に入るラフマニノフは、他の出国者に手を差し伸べることも多かった。プロコフィエフもそんな中の一人である。また、ラフマニノフはボリショイ劇場など、ロシアの音楽施設などへの寄付を生涯に渡って続けていたという。そのせいもあるのか、ソ連とラフマニノフとの関係は、緊張関係を生じることもあったが、比較的良好なままであった。スターリンはラフマニノフの帰国を望んでいたという。もちろん、第2次世界大戦におけるドイツとの凄惨な戦いは、ラフマニノフの心を痛め続けた。ラフマニノフは連合国援助のコンサートを度々開催している。しかし、ラフマニノフはロシアの地に戻ることはなく、1943年3月28日、アメリカ合衆国の西海岸カルフォルニアにてその一生を終えた。数日後に迎えるはずだった70歳の誕生日を祝う祝電がソ連政府から届けられたが、その時には既にラフマニノフの意識は失われていたという。

1943年春、ロシアをこよなく愛しつつも、その後半生はロシアを遠く離れ、ロシアに思いを焦がしつつも、一人の作曲家がその生を閉じたその時、そのロシアの地では…。

(中田麗奈)

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