ラフマニノフ (1873~1943) 交響曲第1番 ニ短調 作品13

ラフマニノフの交響曲第1番の初演はなぜ失敗したのか?

才能に相応しい野心を湛えていた青年ラフマニノフ。モスクワ音楽院を卒業してからはフリーの音楽家として活躍し、安定した収入源こそ無かったものの、ピアノ演奏や指揮など、幅広く活動している。そして、1895年、ラフマニノフは交響曲の作曲を開始する。この時代、大規模な交響曲を成功させることは、本格的な作曲家として見做される為には欠かせない道としてあった。遂にその道に挑むラフマニノフ。1月に作曲を開始し、秋頃に完成。初演は1897年3月15日と決まった。場所はペテルブルク、指揮をするのは時のロシア音楽界の大御所、作曲家そして教師として高い名声を誇っていたグラズノフである。

さて、この初演、散々たる失敗に終わり、ラフマニノフは全く自信を失ってしまったということは広く知られている。天才ラフマニノフが味わった初めての大きな挫折、であった。ラフマニノフはしばらく鬱状態に入り込んでしまったほどだった。ではなぜ初演は失敗したのか?広まってる理由としては、グラズノフが酒に酔ったまま指揮をしてしまったから、というもの。この説は、ラフマニノフの交響曲第1番の初演が失敗したという話とほぼセットで、一緒に広まっているようである。ではこれは真実なのだろうか。犯人はグラズノフなのだろうか?

実はグラズノフが酔っぱらっていて指揮を失敗したという話には、確かな根拠が無い。後になって何人かが「グラズノフは酔っぱらっていたようだった」と言っているだけのことらしい。ではグラズノフは無罪なのかというと、そうも言い切れない。まず、初演のときの演奏の出来が良くなかったことは、多くの証言から確かなようである。指揮者は演奏の出来に大きな責任を持つ。その演奏が悪かった以上は、グラズノフに責任が無いとは言えない。ただ、グラズノフのみを責めることも出来ない。この日の演奏会はラフマニノフの新作交響曲がメイン扱いではなく、チャイコフスキーの交響詩《運命》(1868年)という珍しい作品の蘇演がメインの演目だった。練習時間はそちらに多く割かざるを得ず、ラフマニノフの交響曲第1番の練習時間はどうしても不十分なものとなってしまった。これはグラズノフのみに責任があるとは言えない。

そしてもう一つ、初演の場がペテルブルクだったということ。ラフマニノフの経歴にある通り、ラフマニノフの才能はペテルブルクではなくモスクワで開花した。ペテルブルクはラフマニノフの才能を花開かせることが出来なかった土地である。モスクワ音楽院の卒業後も、ラフマニノフはモスクワを中心に活動する。ペテルブルクはロシア音楽界の長老リムスキー=コルサフコフが仕切っていたが、ラフマニノフはリムスキー=コルサコフと接点は無かった。リムスキー=コルサコフをはじめとするペテルブルクの音楽関係者にとって、ラフマニノフは歓迎すべからぬモスクワからの賓客だったのである。ではなぜ、初演はラフマニノフにとって馴染みのあるモスクワではなく、半ば敵地とも言えなくはないペテルブルクでなされることとなったのか?その理由ははっきりとは分かっていない。ペテルブルク派によるラフマニノフ潰しの陰謀か?それとも、ラフマニノフが自信作を持ち込んで敵地に乗り込んでいったのか?そこは分からないのだが、はっきりしていることは、初演が失敗に終わったということ。少ない練習時から、演奏は既に上手くいっていなかったらしい。(ここでも、グラズノフ飲酒説は否定される。酒を飲もうが飲むまいが、上手くいかないことは分かりきっていたのだから。)失敗が予想されたためかどうか、ラフマニノフは二階桟敷へのらせん階段に座り、時折耳を塞ぎながら本番を聞いていたという。ちなみに、リムスキー=コルサコフはこの初演の場にはいなかった。

(以上の経緯は一柳富美子『ラフマニノフ 明らかになる素顔』東洋書店、2012年、に詳しい。この本は手軽に読みやすい形式でありながらも充実した内容を持ち、是非手に取って頂きたいのだが、残念ながら出版社倒産の為、手に入れるのが難しいものとなってしまっている。是非、他社による再販を望みたい。)

タグ: ラフマニノフ