《ディエス・イレ》の引用?
この交響曲第1番は全部で四つの楽章を持ち、形式的には伝統的な交響曲の形式をなぞったものと言えるだろう。しかし、その内容は若きラフマニノフの心の叫びが聞こえてくるようでもあり、特に予定調和的な大団円を避けたフィナーレの野心的な響きは、初演においてこの曲がちゃんと演奏されたとしても、当時の保守的なペテルブルクの聴衆が拍手を送ったかどうか、疑問が残る。ラフマニノフのこれ以降の作品で聞かれるような響きが随所に聞こえる箇所もあり、確かにラフマニノフの個性が既に明確に出た作品となっているのだが、後の作品の方がスマートというか効果的な使われ方をしているのは否めない。後年のラフマニノフは、この曲を反面教師として扱ったかもしれない。もっとも、この曲の場合、そういう宝石の原石感が魅力の一つとなっているのだが。
興味深いのは、後のラフマニノフ作品に登場するグレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ」(「怒りの日」)の音形に似たモチーフも登場することだろう。後年のラフマニノフは「ディエス・イレ」音形を《パガニーニの主題による変奏曲》(1934年)で明確にかつ意識的に引用しているのだが、それ以前の作品における「ディエス・イレ」の引用は、グレゴリオ聖歌の「ディエス・イレ」についてよく知らない状態のまま書かれたという指摘がある。ラフマニノフはこの主題の使われ方を十分に知悉していたし、「ディエス・イレ」を思わせるモチーフを使った場合、どういう文脈で聞こえるか理解して、そして実際にそれに沿った使い方をしている。しかし、もともとのオリジナルを良く知らないまま使っていたのであって、ラフマニノフが「ディエス・イレ」のオリジナルやしっかりとした知識を得たのは1930年代に入ってからのことであり、それ以前と以降は区別するべきだ、というのがその指摘の内容。確かに、ロシア時代のラフマニノフにグレゴリオ聖歌を耳にする機会があったとは思えないし、《パガニーニの主題による変奏曲》のような明確に姿を現すわけではないので、交響曲第1番の「ディエス・イレ」音形は明確な引用と呼ぶには難しいものがあるかもしれない。しかしこの場合、むしろ半ば無意識的に「ディエス・イレ」に惹かれ使用し、後になってその真の意味を知るに至った、ということになり、これはこれで面白い物語となる。「ディエス・イレ」を「連想させる」モチーフの登場、漠然とした引用。デビュー作に知らず知らずのうちに自ら込めてしまった呪い。ラフマニノフは一生をかけて、この呪いを解くこととなる。最晩年の作品《交響的舞曲》(1941年)には、終楽章のクライマックスの場面でこの「ディエス・イレ」が、誰にも否定出来ない明確な姿で立ち現れる。
《交響的舞曲》には第1楽章の終盤に、交響曲第1番の主題が登場する。それが交響曲第1番の引用であり回想であることを知り得るのは、交響曲第1番の蘇演がなされなければ、恐らくラフマニノフ以外にはいなかっただろう。交響曲第1番初演の失敗は、天才ラフマニノフの挫折であり、ラフマニノフの青年時代の終わりであった。そして、本格的な作曲家ラフマニノフが誕生する契機ともなる。終わりと始まり、始まりと終わり。人生の終わりに近づいた時、ラフマニノフはどのような想いでこの曲を振り返ったのだろうか。