ドヴォルザークは〈8番〉で、ベートーヴェンが基本型を築いたロマン派的な交響曲の様式を押し進めようとする。その結果、フィナーレは〈エロイカ〉を発展させた重厚な変奏曲になったが、全楽章を循環形式的に統一するまでには至らなかった。そこで雛型にしたのが〈幻想交響曲〉。同じような問題意識から壁を乗り越えようとしていたチャイコフスキーは1888年に〈5番〉を初演。そこでは〈幻想〉のイデー・フィクス(固定観念)、つまり中心主題が全楽章に登場することで、全体を連鎖のように結びつける手法が見事な成果をあげていた。
その2年後の90年、ドヴォルザークはチャイコフスキーの招きでロシアを訪れ、自作を指揮している。その際、どの程度まで〈5番〉の実像を知り得たかは定かでないが、93年に作曲した〈新世界〉は、同様にベルリオーズ流のイデー・フィクスによって、堅固な構築性が確保されることになった。
この曲のイデー・フィクスは、Ⅰ楽章の序奏後半で予告的に呈示された後、主部冒頭でホルンによって奏される④a。ドヴォルザークはワグネリアンだったので、楽劇の指導動機に近い印象も受けるが、これが何度も繰り返されるので、パワーと、しつこさが紙一重で同居している。
④aの大きな特徴はリズムにある。1小節目が付点リズムなのに対し、2小節目は逆付点、つまり『不可逆行リズム』なのだ。逆付点リズムは、ロンバルディアリズムやスコッチスナップ等の呼び名もあるように、民族色が濃いのが特徴。
『付点リズム』と『逆付点リズム』を連結して『不可逆行リズム』Xにする技法は、文章なら『鴨もか』みたいなもの。我が国では〈麦畑〉〈故郷の空〉として歌われてきたスコットランド民謡④bはその典型だが、祖国ボヘミアや英国はもちろんのこと、アメリカインディアンや黒人の民族舞曲の中に、共通言語的なリズムとして感じ取ったから使ったとも考えられる。ドヴォルザークの人気が逸早く英国で高まったのは、こうしたことと無関係ではあるまい。
Ⅰ楽章 ホ短調 序奏部 4/8 主部 2/4 ソナタ形式
序奏部はチェロによる瞑想的な①で始まり、ホルンが応える。この曲は20世紀後半から楽譜上の様々な異同が指摘されているが、その先陣を切るのが、このホルンの②aと②b。序奏部をドラマテッィクに締めくくるティンパニの③aと③bは、聴いた印象がかなり違うので、最初に記憶したのと異なる演奏に出くわすと、衝撃と疑問が同時発生する。
93年12月16日にドヴォルザーク立ち会いのもとザイドル指揮でニューヨークで初演に使われたスコアと、初版出版のためにヨーロッパのジムロック社に送られた別の浄書スコアの2つが存在したのが一番の問題点。しかもジムロック社が初版の校訂をブラームスに依頼したことが、事態を複雑にした。
当時は音楽学的な資料批判よりも、演奏のための実用譜としての価値が優先されていたから、ブラームスもそうしたスタンスから監修を行なう。ブラームスは後進国の天才の輝きを逸早く認め、ヨーロッパの表舞台に引っ張り上げたプロパガンダーでもあったから、人選は間違っていなかった。それよりも問題を複雑化したのは、ドヴォルザークが米国にいたため、初版作成の現場に立ち会うことができなかったこと。つまり初版が印刷譜となってから、初めてドヴォルザークが目を通すことになったのである。今のように、ファックス等によって遠距離の二者が同時に意見を交わすことが可能だったならば、問題の多くは、もっと簡単に解決されていたことだろう。こうした経緯から、微妙に細部の異なるスコアが数多く出版され、最近は初演のパート譜を根拠にしたCDも登場している。
今回の演奏に際しては、筆者なりの判断を最優先させた。因みにホルンは②a、ティンパニは③a。他の場所も含めて、『資料優先』、逆に『音楽的な感性優先』、それなりの根拠はあるのだが、ここはそれを説明する場では無いので詳述は避ける。ちなみに③のティンパニの場合、楽譜としては③aしか存在しない。二度打ちする③bは、③aのトリルとsffzの位置を誤読した結果なのが明らかなので、近年、実演で聴く機会は、ほとんど無くなった。