「ドイツ音楽」から「チェコ音楽」、そして「アメリカ音楽」へ

国民楽派、ドヴォルザーク

dvorak01 thumbアメリカ合衆国はヨーロッパからの移民で形成された国家である。そのため、独立してからもしばらくの間は、そのルーツと規範をヨーロッパに求めた時代があった。南北戦争も終わり、本格的に国家統合を果たし社会を建設していこうという中で、ヨーロッパの著名人をアメリカ合衆国に招き、アメリカ国内における諸々のレベルを上げていく。クラシック音楽において、その役割を担った人物で最も著名なのは、アントニン・ドヴォルザークであろう。

ドヴォルザークが生まれたのは1841年、オーストリア帝国が支配するボヘミア地方のプラハから北に少し行ったところにある小さな街。音楽家を志し、ボヘミア地方の中心都市であるプラハの音楽学校で勉強する。卒業後はヴィオラ奏者として活動する傍ら、作曲の勉強も始めた。当時すでに名声を博していたブラームスの目に留まり、ブラームスとの親交が始まる。1880年代からは作曲家として国際的に知られるようになり、ボヘミア以外でもその作品は盛んに演奏されるようになった。交響曲第8番は1889年の作品。この頃にはブラームスを継ぐ存在として確固たる地位を獲得していたと言って良いだろう。ドヴォルザークは特に、ボヘミアとモラヴィアを含むチェコを代表する作曲家、「国民楽派」の大家と認識されており、これに目をつけたのが、アメリカの「国民楽派」を新たに創出しようとするアメリカの人達だった。そして、ドヴォルザークはアメリカ合衆国に招かれ、ニューヨーク音楽院にて、アメリカの学生たちに作曲を教えることになる。

18世紀末から19世紀初頭にかけて、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの活躍などにより、ドイツ諸地域やオーストリア帝国といったドイツ語圏が新たな音楽の中心として、突如としてヨーロッパ社会に躍り出ることとなった。これはそれまでの音楽の中心だったフランス・イタリアの地位低下と、19世紀後半には、多くの民族を支配していたオーストリア帝国の影響を、政治的のみならず文化的にも脱却しようとする民族主義の流れに複雑な影響を及ぼすことになる。ドイツ語圏の作曲家は、器楽、特にオーケストラを使った交響曲というジャンルを異常なまでに発達させたのだが、そのため、器楽作品は「ドイツ的なもの」として見做す見方が生まれた。その一方、政治的・民族的なものとは切り離し、あくまで芸術的な観点から器楽作品を愛好するという見方も当然あった。どの作曲家も両方の要素は持っており、同じ人物でも時期によってその濃淡はあるのだが、ドヴォルザークはそんな作曲家の一人だったかもしれない。ドヴォルザークはこの時代、主流からは外れていた交響曲という形式に拘った作曲家だったが、交響曲の創作で言えば、初期の1865年に完成した《ズロニツェの鐘》と名付けられた交響曲第1番(ズロニツェはボヘミア北部の都市で、ドヴォルザークは少年時代の幾年かをここで過ごした)から、第3楽章にフリアントというチェコの民族舞曲のスタイルを導入し、国際的な名声を博しつつあった1880年に完成された交響曲第6番はが、特に「チェコ的」な作品と言える。これ以降のドヴォルザークは、チェコ的な要素に留まらない普遍的な音楽表現を志向した、と言えるだろう。

しかし、これは一つのストーリー・見立てでしかなく、ドヴォルザークのみならず、この時代のクラシックの作品を客観的に「民族的である・民族的でない」と区分けすることは、非常に難しい。民族的な要素をどのように使うかも重要な議論のポイントとなる。ドヴォルザークの交響曲第7・8・9番も、チェコ的な作品であると論を展開することは難しいことではないだろう。大体、先に述べたように「交響曲はドイツ的な創作分野」であり、「ドイツ的な表現様式に拘ったドヴォルザークの音楽は真に民族的なものとは言えない」という議論も展開されている。例えば、この時代の有名な批評家エドゥアルト・ハンスリックはドヴォルザークのことをブラームスの跡を継ぐ器楽の大家として評価しているのだが、その評価ポイントの一つに「ドイツ人以外がドイツ的な表現様式で優れた作品を生み出している、この表現様式は民族を超えたものであると証明された、よってこの表現様式を生み出したドイツの芸術は偉大である」という、捻くれたと言っては言い過ぎかもしれないが、少々アクロバティックとも言える評価基準があった。また、20世紀に入ったチェコでは、オペラや交響詩《我が祖国》で民族的なものを表現しようとしたスメタナとドヴォルザークの、どちらがチェコを代表する作曲家として相応しいかという論争も行われていたりする。大事なのは、どの時代のどこの人がどんな視点でどのような認識をしていたかということであり、ドヴォルザークを招いたアメリカの人たちは、アメリカ人がアメリカの音楽を創作するにあたってドヴォルザークが手本になるだろう、と考えたことである。

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