「ドイツ音楽」から「チェコ音楽」、そして「アメリカ音楽」へ

アメリカ音楽の創造に向けて

copland01 thumbニューヨークで活動を開始したコープランドは、瞬く間に注目の人となる。1925年1月、《オルガンと管弦楽のための交響曲》が初演。その鮮烈な響きは新しい時代の新しい才能の登場を知らしめるに十分なものだった。とはいえ、この時期のアメリカ音楽のスターは、言うまでもなくガーシュインであった。ジャズとクラシックを高い次元で融合したガーシュインの音楽を目の当たりにし、コープランドはアメリカ的な音楽とは何かと想いを馳せる。ジャズ的な要素を取り入れたり、モダニズム的な要素を取り入れたり、自らのルーツであるユダヤ的なものも、時には。1930年代に入ると大恐慌期の影響から社会主義的なものに傾斜、大衆に根ざした音楽を目指すようになる。と、スタイルは変遷していくのだが、こういったスタイルの変遷はこの時代の多くの作曲家に共通するものであり、どの作品にもコープランドの個性が刻印されたものとなっている。それは紛れもなく、コープランドが偉大な作曲家であることの証明でもあった。

1940年代に入ると、舞踏のための音楽や映画音楽、劇音楽なども作曲した。そして1944年、交響曲第3番の作曲を開始する。1946年にこの交響曲は完成し、同年10月、クーゼヴィツキー指揮により初演が行われる。ここにアメリカを代表する交響曲が誕生する。そしてコープランドは、アメリカのクラシック音楽界を代表する作曲家となったのであった。

なぜ交響曲?

そしてここで「なぜ交響曲?」かを確認しておく必要がある。再三述べたように、交響曲は「ドイツ的な」音楽様式だった。そして、コープランドはこの時までに、交響曲というジャンルにさほど執着していない。1928年に完成した交響曲第1番は前述の《オルガンと管弦楽のための交響曲》を改作したもの。1933年の交響曲第2番は《ショート・シンフォニー》と言う表題を持つ。いずれも、「ドイツ的な」重厚長大な、また、作曲家の代表作となるべき存在ではない。交響曲に大きなウェイトを置いていなかったのは、ドイツ音楽からの決別の証であり、それ自体が意味を持つものである。しかしなぜ、ここで重厚ではないが長大な交響曲の作曲に向かったのか。

作曲の直接の契機はクーゼヴィツキー財団からの委嘱であった。特に条件もなく、大オーケストラを使っての初演が約束されているとなると、大オーケストラを使った交響曲の作曲に向かったのはさほど奇異なことではあるまい。また、コープランドがこの時期、抽象的な音楽のスタイルに傾いていたこともあるだろう。それは、遠くソヴィエトの作曲家たちも影響していたに違いない。コープランドと同じくモダニズムやジャズの洗礼を受けながら、今やベートーヴェンの系譜を受け継ぐ交響曲作曲家となったショスタコーヴィチ。そして同じく、モダニズムの旗手として名を馳せ交響曲には大して興味を示さなかったにも関わらず、第二次世界大戦の勝利の予感の中、傑作交響曲第5番を完成させたプロコフィエフ。冷戦の予感の中で、突如として興隆するソヴィエト交響曲に対抗するために、アメリカ合衆国にも交響曲が必要だった。アメリカ合衆国を代表する作曲家となっていたコープランドに期待が向けられるのは当然だった。そして見事、コープランドはこの期待に応える。

ここでコープランドが本格的な交響曲を作曲するにあたり、ゴールドマークの教えが直接に役立ったかどうかは分からない。少なくとも、この交響曲第3番は、ゴールドマークが至高のものとした「ドイツ的な交響曲」からは大きく装いを異にしている。しかし、それを可能としたのは、コープランドが「ドイツ的な交響曲」を熟知していたから、とも言えるのではないだろうか。乗り越えるべき相手がある時に、その相手が何者かという知識は、当然その攻略を助けるものとなるだろう。コープランドはドイツ音楽が何かを知っているからこそ、それとは違うアメリカ音楽を創出することができたのではないだろうか。受け継がれるものと受け継がれなかったもの。コープランドは、受け継いだものも受け継がなかったものも、見事にアメリカ音楽に、そして自分の音楽に昇華させたのだった。ゴールドマークにとっては不本意だったかもしれないが。

タグ: ドヴォルザーク, コープランド

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