ニューヨークのボヘミア人
ドヴォルザークがアメリカ合衆国に渡ったのは1892年のこと。この時までの作品だけでもドヴォルザークは音楽史に残る名作を幾つも作曲しているのだが、アメリカ時代のドヴォルザークは交響曲第9番《新世界より》に続き、弦楽四重奏曲第12番《アメリカ》(1893年完成)にチェロ協奏曲(1896年現行版完成)といった傑作を次々に産み出すこととなる。《新世界より》はドヴォルザーク自身がつけた表題で、1893年の1月から5月までと短い期間の間で作曲されている。ドヴォルザークはアメリカの地で黒人霊歌に非常に強い興味を持ったと言われている。(しかしドヴォルザーク自身は、アメリカで聞いた黒人やアメリカインディアンの旋律をこの交響曲に使ってはいないと述べていることは注意しておきたい。使用したのは、それらの音楽の「精神」だということを述べている。)そのようなアメリカ的な要素はもちろん、チェコ的な要素をもふんだんに盛り込まれ、かつ両者がドヴォルザークの個性の元に交響曲という形式に見事に同居している。しかも、その旋律は美しく非常に豊かなもので、また、交響曲に必要とされる構成力も充分なものを持っている。ただ、その性格を把握することは、存外に難しい曲かもしれない。2楽章はお馴染みの、美しい見事な旋律がある。しかし、楽章全体が表現しようとしていることは何か。暗く、静かな風景、寒々しく、荒涼とした音楽。4楽章は勇壮で輝かしい。しかし、段々と音が減衰して終わるその終結部は何だろうか。恐らく、その音楽の性格を一言で表すことは難しい。この頃になると、ロマン派の作曲家たちが目指すものは言葉では表現できないものであることが、より明確になってくる。ドヴォルザークも、チャイコフスキーやマーラーが開拓しつつある新しい表現の領域に、一歩、足を踏み出したのであった。私見であるが、そういった新しい感情表現の表出は、言葉や物語にとらわれない交響曲ー即ち絶対音楽ーという分野でこそ、可能になったのではないか。確かに、ドヴォルザークがまず第一に志向したのは、民族的なものを超えた普遍的な表現だったと言えるのかもしれない。
チェコに戻っても、ドヴォルザークは新しく交響曲を作曲することはなかった。ドヴォルザークの表現意欲はそれまでに大きな成功を収めていなかったオペラに向かう。オペラは、スメタナが大きな成功を収め、それによってスメタナは、チェコの音楽界のみならずチェコの社会全般にわたって、チェコを代表する芸術家として知られるに至っていた。交響曲という「ドイツ的な音楽」で成功を収めたドヴォルザークだったが、「チェコの芸術家」を代表するにはそれだけでは足りなかった。オペラで代表作を生みだし、そしてスメタナを超えなくてはならない。アメリカから帰国したドヴォルザークは、《悪魔とカーチャ》(1899年完成)や《ルサルカ》(1900年完成)といった、チェコの昔話を題材にした非常に「チェコ的なオペラ」を作曲する。それらがスメタナの作品よりも「民族的」かどうかは、筆者には判断するすべはない。1904年、ドヴォルザークはこの世を去った。チェコがチェコスロバキア共和国として独立を果たすのは、それから14年後のことである。
アメリカにおけるドヴォルザークの弟子
アメリカに渡ったドヴォルザークだったが、その地に馴染むことはなかったようで、1895年には職を辞しアメリカを去りチェコに戻っている。なんとも短いアメリカ滞在だった。そのせいか、アメリカ時代のドヴォルザークの教え子の中に特筆すべき作曲家は見当たらない。とはいえ、アメリカ時代のドヴォルザークも実際に教育活動を行なっていたわけだから、教え子、弟子にあたる人物は当然いることとなる。その一人が、ルービン・ゴールドマーク。1872年にニューヨークで生まれたゴールドマークはニューヨークで学んだ後、ウィーンに留学してウィーン音楽院で作曲家のロベルト・フックスに学ぶ。ゴールドマークの叔父カール・ゴルトマルクもまた作曲家で、ウィーン音楽院で教壇に立っていた。ルービン・ゴールドマークはウィーンで学んだ後にアメリカ合衆国に帰還、そこで音楽家としての活動を開始する。ニューヨーク音楽院でピアノと音楽理論を教える傍ら、作曲のクラスにおいては学生としてドヴォルザークから作曲を学んだのであった。ゴールドマークはウィーンですでにフックスなどから作曲を学んでいるが、作曲家として高い成功を収めたドヴォルザークがすぐ近くにいる。そんなドヴォルザークから作曲を学ぶ機会が存在するのであれば、それを逃す手はない。実際、ゴールドマークが学んだウィーンにおいては、当時、民族運動を展開するチェコ人に対する政治的な軋轢から、ドヴォルザークが教壇に立つ機会はなかった。そしてゴールドマークは、ドヴォルザークの弟子という称号を手に入れる。その後、アメリカ合衆国の各地の音楽院で作曲を教え、教育界の大御所となったようである。
さてこのゴールドマーク、どのような音楽スタイルだったか。筆者はその作品を実際に聞いたことはないのだが、ウィーンで学んだことからも分かるように、「ドイツ的な音楽」を作曲したようである。当然、その教育も「ドイツ音楽」を手本とするものであった。ゴールドマークは学生たちに伝統的なソナタ形式で曲を書くように求め、それを学業修了の条件としたらしい。第一主題、第二主題、主題の発展、転調、展開、コーダ、諸々。器楽の領域でこのソナタ形式の可能性を展開し尽くしたのがドイツロマン派の作曲家たちであり、交響曲だった。ある文脈において、ソナタ形式は「ドイツ音楽」と同義語として受け取られていたのである。1917年から1921年の間、コープランドはこのゴールドマークに学んでいる。コープランドにとっては、これはどういう期間だったのか。