R.シュトラウス (1864~1949) アルプス交響曲

 

第一時世界大戦の衝撃

とはいえ、当時の世界に身を置いてみると、リヒャルト・シュトラウスに対する批判も決して頷けないものではない。アルプス交響曲の初演は1915年10月28日、ベルリンにて行われた。前年の1914年に始まった戦争は、その年のクリスマスまでに終わるだろうといった楽観的な予測を裏切って、敵味方を問わずたくさんの若者の血を吸い上げながら、まだ終わる見込みがなかった。第一次世界大戦は、機関銃という兵器が戦場の様相を一変させた。機関銃自体は既に登場していた兵器で、ここに至って登場した新兵器という訳ではない。特に、日露戦争で既に使用され、数多くの日本兵を苦しめた兵器である。『二百三高地』や『坂の上の雲』の世界である。塹壕に立てこもった敵兵に対して、大声を上げ軍刀を振り上げ切り込み突撃を敢行する。19世紀までの戦争だったら勢いでなんとかなったかもしれないが、相手が機関銃を持っているとどうなるか。弾が続く限り、引き金をひいていれば弾が出続ける。殺戮兵器である。生身の人間がどんな数で突撃しても勝てる筈が無かった。しかし、この兵器に初めて戦場で出会ったらどうなるか。取りあえずは今までのやり方を踏襲する他は無いだろう。何度も何度も突撃が行われ、その度に死体の山が築かれる。それを何度も繰り返した後、ようやく今までのやり方では無理だということが分かる。そして突撃も止め、地面に掘った塹壕に籠って、両者はにらみ合いを続けるのである。第一次世界大戦で起こったのは、こういうことであった。ドイツはフランスとロシア相手に二正面作戦を繰り広げるはめとなり、そして両方の戦線で、敵味方問わず、多くの若者が機関銃で命を落とす。機関銃の弾が雨あられと降り注ぐ中の、突撃命令。塹壕から出た途端にひき肉となる若者達。しかし、現場から遠く離れたお偉方は突撃命令を繰り返すのみ。地獄だった。クラシック音楽を始めとする豊穣な芸術・文化やヴォルテールなどの人間の理性を信じる思想を生み出したヨーロッパは、ここに至って無為に若者の命を散らすだけの世界に成り果てたのである。

実は、第一次世界大戦に従軍した音楽家は意外と多い。作曲家で言えば、ラヴェルやヒンデミットが有名どころだろう。ラヴェルはトラック輸送兵となり銃を持って戦った訳ではなかったようだが、第一次世界大戦の終盤に徴兵を受けたヒンデミットは銃を持って最前線に赴き、血と肉と鉄の嵐を実際に体験している。ちなみに、ヒンデミットの父親も従軍し戦死している。ヒンデミットは戦後しばらく父親の幻影に悩まされたという。演奏者では指揮者のフリッツ・ブッシュ。志願兵として前線に赴いたブッシュは、ベルギーのイープルで史上初めての毒ガス戦に参加し、他の戦地でも何度も死の危険に直面している。また、前述したシャルル・ミュンシュの数奇な運命。音楽家も、まったく無縁ではあり得なかった戦争だった。しかし、リヒャルト・シュトラウスはどうだ。もちろん、1864年生まれのリヒャルト・シュトラウスはこの時点でかなりの高齢であり、戦場に赴くということは無かった。しかし、この、多くの若者が無駄に命を失い、今もなお、多くの若者が死線でにらみ合いを続けているその最中に、交響曲の演奏会だと?いや、実はその批判は正しくない。この時代、国民慰撫の手段としてクラシック音楽は大いに活用されたのである。内容は交響曲といった重厚長大でシリアスでものではなく、序曲やオペラのアリアという軽めのものが好まれたのだが、オーケストラの演奏会自体は例えばウィーンにおいては、第一次世界大戦中はその前に比べると増えているという統計がある。これは、時の政府が芸術をどのように活用するかという問題で、昨今の日本の場合で言えば、高名な映画賞を受賞した監督の発言とその反応を考えると、非常に重要な問題なのだが、それはともかく、政府はクラシック音楽を活用出来る範囲で活用し、音楽家も祖国への義務といった形でそれに応えた。戦争景気が、クラシック音楽の現場でももたらされたのであった。内容が非道徳だとして宮廷歌劇場で取り上げられることが無かった《サロメ》がベルリンの宮廷歌劇場で上演されたのも、この時期のことである。

 

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