ショスタコーヴィチ (1906~1975) 交響曲第7番〈レニングラード〉

その交響曲は誰がために

shostakovich 120px「心配することはない。私がいないと始まらないのだから!」その日、コンサート会場の前は混雑でごった返していた。その日の演奏会のチケットは完売だったが、諦めきれない人々が大勢押し寄せ、ちょっとした混乱状態に陥っていた。チケットを持っていた人でもコンサート会場の入り口に辿り着けず、そんな人の声を聞いての言葉だったのだろう。そのルーマニア訛りのドイツ語を耳にして、人々はその声の主を見た。そこにいたのはセルジゥ・チェリビダッケ。本日の演奏会の指揮者である。混乱は治まり、人々は指揮者の為に道をあけ、チェリビダッケはコンサート会場の中に消えていった。そして定刻より少し遅れ、演奏会が始まった。その日の演奏会はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の特別演奏会、指揮者はセルジゥ・チェリビダッケ。曲はソ連の作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチがつい5年前に完成させた交響曲第7番であった。その交響曲を、人々は捧げられた街の名を取って《レニングラード》と呼んでいた。

第二次世界大戦終結後、ドイツの首都だったベルリンはアメリカ合衆国・イギリス・フランス、そしてソ連の戦勝四カ国が分割して統治することとなった。そこでは、ナチス時代に押さえつけられていた反動もあり、一気に活発な文化活動が展開されることとなるのだが、それには占領側の理解と協力も不可欠だった。意外なことにというべきか、四カ国の統治地域の中で最も活発な文化活動を行うことが出来たのは、断然、ソ連占領地域だったという。占領統治を行うソ連軍の高位軍人の中に、文化芸術を愛好する者がかなりの数いたらしい。そんな彼らにとって、ベルリンの地で「世界最高のオーケストラ」ベルリン・フィルの演奏を楽しむことが出来るというのは、降って湧いた僥倖であったことだろう。この時、困難な時代ながらもベルリン・フィルはルーマニア生まれの若き指揮者セルジゥ・チェリビダッケのもと、活発な演奏活動を繰り広げていた。ベルリン・フィルの十八番とも言えるベートーヴェンの交響曲のパート譜さえ事欠く有様だったが、チェリビダッケは占領軍の協力も取り付け、猛烈な勢いでベルリン・フィルの再生に取り組んでいた。チェリビダッケがこの時期にベルリン・フィルのシェフになったのは半ば偶然のようなもので、ベルリン・フィルとしては東欧から来たよくわからない若者に自らの運命を託すことになったのだが、このルーマニアから来た指揮者は、凄まじい才能と熱意を持っていた。チェリビダッケとベルリン・フィルの演奏は、乾いたベルリンの人々の心の糧となり、人々はベルリン・フィルのコンサートに押し寄せた。そんな中、チェリビダッケとベルリン・フィルはショスタコーヴィチの《レニングラード》を演奏することとなった。特別演奏会で、客席にはソ連軍人の姿もあった。この演奏会の詳細を調べ切ることは出来なかったのだが、譜面入手のことも考えると、恐らくソ連の主導のもとに開催される演奏会だったのだろう。ソ連に攻め込んだドイツ軍が包囲したレニングラードの街に捧げられたこの交響曲が、ソ連に占領されたベルリンで、「総統のオーケストラ」ベルリン・フィルによって演奏されるとは!

演奏会が開催されたのは1946年12月21日、前述したようにチケットは売り切れ、満員の聴衆を前にしての演奏会だった。演奏終了後、盛大な拍手で演奏会場は包まれたという。大成功だった。演奏終了後、ソ連軍高官が舞台に立ち、簡単な感謝の言葉を述べた。しかし、チェリビダッケにとって、真の栄光の瞬間はこの次に訪れた。聴衆の中から、背の高い一人の男が歩み寄り、チェリビダッケに握手を求めたのだった。その男の名は、ウィルヘルム・フルトヴェングラー。ドイツ・オーストリアで最も高い人気を持ち、その演奏はドイツ音楽の権化・ドイツ音楽の精髄と称されるほどの伝説的指揮者だった。第二次世界大戦中も指揮台に立ち続けたフルトヴェングラーは、この時期、ナチスとの関係を疑われ占領国による裁判の途中にあり、音楽活動を禁じられていた。ベルリンの人々は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルに戻ってくることを心待ちにしていた。その不在を埋める指揮者としてのチェリビダッケである。しかし、フルトヴェングラーの帰還を待っていたのはチェリビダッケも同じだった。チェリビダッケにとって、フルトヴェングラーは崇拝の対象ですらあった。彼が帰ってくるまで、ベルリン・フィルを持ち堪えさせる。その気持ちでチェリビダッケはタクトをとっていた。そのフルトヴェングラーが、演奏終了後、握手を求めてきたのである。チェリビダッケは全ての苦労が報われたと思っただろう。実は、ご存知の方も多いだろうが、この時の演奏会の録音が残っている。CDにもなっているその演奏を今回、改めて聞いてみたのだが、上手い。確かに良い演奏なのである。隠れた名盤と言っても良い。特筆すべきは弱音部の繊細さと美しさ。貧弱な録音からでも、その音楽の異様なまでの美しさは伝わってくる。これは確かに、後になって聞くことが出来るチェリビダッケの音楽に他ならない。既に、チェリビダッケはチェリビダッケだったのだ。

この時期のチェリビダッケとベルリン・フィルは、ナチス時代に禁じられた音楽を猛烈に演奏していた。まずはなんといっても、メンデルスゾーン。ドイツ音楽の大本流ながらユダヤ系ということで演奏が禁じられたメンデルスゾーンの復権は、何にも増して一番に取り組まなければならないことだった。これに加えベートーヴェンやブラームスの演奏は当然のこととして、その他にも、ナチス時代に「退廃音楽」とされたり敵国の作曲家だったりして演奏されなかった作曲家の作品。ヒンデミット、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ブリテン、そしてショスタコーヴィチ。その中での《レニングラード》である。ベルリンの人々にとって、特にその作曲の経緯が引っかかるということもなかったようである。何よりも、まず、素晴らしい音楽を楽しめること。それが第一だった。そして占領地ベルリンの人々は、《レニングラード》に盛大な拍手を送ったのだった。

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