愛国者ショスタコーヴィチ?
タイム誌の表紙(1942年)
開戦の知らせを受けてレニングラード市民は様々な反応をしたと書いたが、ショスタコーヴィチはどうやら高揚した人の中に入るらしい。開戦時は音楽院の試験期間だったため、音楽院の教授であるショスタコーヴィチは職場を離れることが出来なかったが、試験が終わり学校が夏休みに入った途端、軍隊への入隊を志願している。断られ、7月2日に再度志願。またも断られたショスタコーヴィチは、今度は義勇軍への入隊を志願している。これは叶えられ、塹壕堀などの陣地構築、そして音楽院の消防の任務をまかされることとなった。音楽院の屋上に上り、空襲の備えをするショスタコーヴィチ。この時の様子は写真に収められ、後にアメリカの雑誌のタイム誌において、この時の写真を元にしたショスタコーヴィチのイラストが表紙を飾ることとなる。実際は、周囲の者はショスタコーヴィチを危険な目に遭わせないよう配慮を欠かさなかったとのことで、空襲を受け燃える音楽院の消火活動にショスタコーヴィチが出ることは無かった。本人がどういうつもりであれ、周囲はそれを絶対に許さなかったのである。
先に、レニングラードの政府当局は混乱し、無用な命令もたくさん発せられ、義勇軍への志願の強制も見られたと書いた。そんな中でのショスタコーヴィチの行動は、かなり愛国心に燃えているように思える。ここでの愛国心は、例えば甲子園で生まれ故郷の都道府県の高校を応援するような、素朴な郷土愛に近いだろう。レニングラードは、ショスタコーヴィチにとって生まれ故郷であり、今でも生活の基盤がある。ショスタコーヴィチにとっては人生の大切な一部であった。それにしても、である。スターリンに散々痛めつけられたショスタコーヴィチは政治家のやることには凄まじい懐疑心と警戒をもっていたが、実はシンプルな愛国者、ナショナリストだったのではないだろうか。このことはプロコフィエフと比較すると一層はっきりするかもしれない。プロコフィエフが望んだのは、あくまで自身の栄光と名声であった。プロコフィエフは、ショスタコーヴィチを《レニングラード》作曲に突き動かしたようなものを、まるで持ち合わせていなかったようである。