包囲された街
レニングラードに対してドイツ軍がとったのは、武力での制圧ではなく兵糧攻めだった。レニングラードはソ連にとって非常に重要な街だった。帝政時代の首都で、現在でもモスクワに次ぐ第二の都市であり、政治的な重要性も高い。そして何より、大きく深い文化的・芸術的な蓄積を誇っている。これを武力で破壊するのは生ぬるい。徹底的に、蹂躙せねばならない。ドイツ軍はこう考えた。包囲による餓えでレニングラード住民の人間性を奪い去る、と。武力での破壊は他の街でやればすむことだ。文化・芸術の中心地レニングラードで、生きながらの地獄をこの世に出現させる。ソ連を、ロシアを、ただ単に武力だけではなく精神的な面においても、屈服させるのだ。そして、レニングラードは包囲された。飢餓に落ちていくレニングラード市民の窮状を、包囲したドイツ軍はサディスティックに楽しみ、かつ冷酷に観察していた。食料の配給に集まった住民を狙い撃ちにするなど当たり前のこと。時には、ロシア語の出来るドイツ兵がレニングラード市内に電話をかけ、「今からそこを攻撃するよ」と言って砲撃することもあったという。冬に入り寒さが広がり、急速に餓死者の数が増えていく。街で行き倒れになる者も次々に現れた。最初のうちは、その死骸を片付ける。しかしそのうち、死体を片付ける余裕が無くなっていく。道ばたに放っておかれる死体。ドイツ軍は、この放置された死体の数が増えていくのを記録していた。ドイツ軍にとって、放置される死体数の増加はレニングラード市民が人間性を喪失しつつあることのエビデンスだった。そして人肉食の横行。闇市場では人肉が取引されるようになり、子供は街を一人で歩くことが出来なくなった。攫われて殺され、肉を食われるからである。こんな話もある。祖母がまだ赤ん坊の自分の孫娘を殺して食べようとしたが、赤ん坊の母(祖母からしたら娘)に止められた。祖母は暫くして死に、その死体は道に転がっていたが、娘はそれを片付ける体力も気力も無かった。。。《レニングラード》交響曲が完成し初演に向けて準備されている1942年の1月末から2月にかけての時期が、最も凄惨な時期であった。レニングラードの街にかろうじて電力を提供していた水力発電が止まり、数日後に配給が止まる。極限の餓えと寒さの中、多くのレニングラード市民が命を落としている。最も酷い時には一日に2万人が死んだという。
さて、ここから先はあまり語られない話であり、私も今回、改めて調べていくうちに初めて知った事実である。このことは《レニングラード》交響曲が何に捧げられたのか、という問題にも関わってくるので、いささか筆を割くこととしたい。実はこの時期のレニングラードには、それなりの食料備蓄があった。しかしそれらは一般市民に回されることは無かった。政府の人間とその家族に振り向けられていたのである。彼らは、この封鎖下のレニングラードに於いても、餓えを経験することは無かった。常に健康そうな血色を湛えていたという。レニングラードの共産党の最高権力者であるジダーノフはちょっと太った体型の持ち主として知られていたが、この状況でもその体型に変化は無かった。レニングラード市民は、隠れてこのジダーノフのことを「豚」と呼んで馬鹿にしていたという。なぜ隠れて、なのか。それは、秘密警察が監視の目を光らせていたからである。開戦当初からレニングラード封鎖の最中ずっと、ジダーノフは秘密警察に厳重な監視を命令していた。反政府的な言動があれば速やかに逮捕すること。開戦当初の様々なことが混乱している最中でも、疎開した子供たちを乗せた列車がドイツ軍の陣地に突っ込んでいき子供たちが機銃で撃たれた最中でも、飢餓が広まり祖母が孫を食わんとしたその最中においてでも、である。ジダーノフにとって、それらのことよりも反政府的なものを取り締まることが優先されるべきことだったのである。この状況においてでも。さらにいえば、十分な食事をしている政府の人間やその家族が、饑餓に苦しむ人々を働かせ、「もっと力を込めて!」と叱責する場面も数度と無く見られたという。ここまでいくと漫画のようだが、それが包囲されたレニングラードの、現実であった。2月中旬、政府はこの備蓄食料を放出し、状況は僅かながらに好転する。そうこうしてるうちに外部の補給路がか細いものであったが確保され、最悪の状況は脱していく。そして春を迎えることとなる。しかし生き残った一般市民は、誰もが心に深い傷を負っていた。文字通り、地獄から生還した人々だった。ショスタコーヴィチは包囲下のレニングラードの実情を母と姉、甥から聞いてどう思ったのだろうか。やせ細った母と、そこそこ健康を保っている姉と甥。この3人は、ショスタコーヴィチに何を語り、何を語らなかったのだろうか。