ショスタコーヴィチ (1906~1975) 交響曲第7番〈レニングラード〉

疎開

しばらくモスクワに滞在したショスタコーヴィチは、ここでも忙しくインタビュー等に応じている。作曲途中の交響曲第7番のことを語り、そしてレニングラードの街への愛を語っている。郷土愛と愛国心に燃えたショスタコーヴィチの姿。10月15日、ショスタコーヴィチと家族はロシア中南部の街クイブィシェフに到着する。最終目的地はレニングラード音楽院が移されていたタシケントだったのだが、足止めを食らったショスタコーヴィチは、長旅に疲れていたこともあり、一旦、ここで生活することに決める。最初は割り当てられた学校の教室で、他の疎開民とともに雑魚寝。やがて家族で一つの部屋をあてがわれるようになったが、ピアノが無い。ピアノが無いと作曲は流石に無理だった。ピアノが用意されたと思ったら、まだ幼い子供たちの声が気になって作曲が進まない。この時点で終楽章の構想はかなり出来ていたらしいのだが、こんな落ち着かない状況では実際に譜面に向かうなど不可能だった。レニングラードに残した母や姉、その子供たちのことも気になってしょうがない。彼らもすぐにレニングラードから離れると聞いていた。だから疎開を承諾したというのに!そんなショスタコーヴィチが落ち着いたのは12月9日、部屋が二つある家を用意されてからだった。翌日から第4楽章の作曲開始。ちょうどこの頃、開戦以来、劣勢一方だったソ連軍の反撃が徐々に成功していた。幾つかの街をドイツ軍から取り戻したというニュースも、作曲に弾みをつけたことだろう。12月27日、第4楽章完成。中断を挟んだものの、実際に作曲にかかった日数は短いものだったと言って良いだろう。

既に初演に向かって関係者は動き出していた。1942年3月5日、クイブィシェフにおいて、ショスタコーヴィチと同じくここに疎開していたサムエル・サムスード指揮ボリショイ劇場管弦楽団によって初演が行われた。大成功だった。初演の様子はソ連全土にラジオ放送され、各地で大きな反響を呼び起こした。この後、ソ連全土のオーケストラがこぞって、この交響曲第7番を演奏するようになる。すぐにモスクワ初演も予定されていた。3月19日の新聞プラウダ紙面において、この交響曲に関するショスタコーヴィチ自身の言葉が掲載された。その文章は次の一文で締め括られていた。「この交響曲第7番をファシズムに対する我々の闘争、来るべき勝利、そして故郷レニングラードに捧げます。」この交響曲第7番、もっぱら《レニングラード》という題名で呼ばれるが、この題名はショスタコーヴィチが書いたスコアには無い。しかし、ショスタコーヴィチが明確に「レニングラードに捧げる」と語ったこともあり、この交響曲は《レニングラード》交響曲と呼ばれるようになったようである。ショスタコーヴィチ自身もこの題名に裏表関わらず異議を唱えた形跡はない。(どんな状態のレニングラードの街に捧げたのかは、後に議論となるのだが。これはまた後ほど。)

3月29日、モスクワ初演。これもまた大成功だった。4月11日、ソ連国家の優れた芸術作品に送られるスターリン賞の第一席を受賞した。国家のお墨付きをも得る。これにより、ショスタコーヴィチと《レニングラード》交響曲は、ソ連国内に於ける「フリーハンド」を得ることとなる。《レニングラード》交響曲の演奏は国家的行事となり、その作曲者のショスタコーヴィチはソ連国家の英雄となった。また、《レニングラード》ブームはソ連国内に留まらなかった。もともと、それまでの作品によってショスタコーヴィチの作品はソ連国外の演奏家からも盛んに演奏され、その新作は大きな期待を持って待たれていたのである。音楽関係者たちにとって、ショスタコーヴィチへの注目は昨日今日に始まったものではなかった。ソ連国外初演はイギリスにて1942年6月22日、ヘンリー・ウッド指揮ロンドン交響楽団によるもの。アメリカ合衆国の放送初演は7月19日、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団。これはアメリカ全土にラジオ放送され、対ドイツの気運を盛り上げることに一役買ったということはよく知られた通り。これより少し後の8月14日、コンサート会場でのアメリカ初演がロシア出身でもとはコントラバス奏者だった指揮者、セルゲイ・クーゼヴィツキー指揮ボストン交響楽団の演奏によって行われた。前回のプログラムに記載したように、この演奏に若きレナード・バーンスタインが大太鼓奏者として参加している。

さて、モスクワ初演を間近に控えた3月19日、やっとのことでレニングラードからクイブィシェフに辿り着いた母と姉、甥の一行とショスタコーヴィチは再会を果たす。姉とその子(甥)はだいたい健康だったが、母はやせ衰えていた。彼らから聞いた封鎖下のレニングラードの窮状は、ショスタコーヴィチに強いショックを与えたことだろう。それは、想像を絶するものだった。地獄、この世の地獄がレニングラードに出現していたのだった。

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