レニングラードでの《レニングラード》初演
春を迎えるにあたって、レニングラード市民には絶対にやらなければならないことがあった。街の大掃除である。そこら中に死体が転がっている中、春を迎えたらどうなるか。死体は腐りだし、伝染病の蔓延である。それは絶対に避けねばならない。かくして、1942年3月27日、街の大掃除が行われる。この頃から、街の雰囲気が徐々に変わっていったという。物理的に寒さと餓えのピークが過ぎたということもある。しかしなんといっても、人々にはあの地獄を生き延びたという実感があった。誰もが、ここで倒れたら死ぬ、という瞬間を幾度も経験していた。倒れた者はそこで死に、なんとか踏みとどまった者は生き残った。何が人々を生につなぎ止めたのか。生存者の話は多岐に渡っている。家族全員が死んで自分が最後の生き残りになりなんとしてでも生き残らなければならないと思った、自分の為に生きていたいと思った、等々。そしてここで目につくのが、文化・芸術によって生に留まった人々が多いということである。音楽、バレエ、絵画、演劇。それは誰かのためであり、そして自分の為であった。この時には、ドイツ軍が意図的に自分たちの人間性を破壊する攻撃を仕掛けているという認識を多くの人が持っていた。であれば、私たちは芸術を手放すわけにはいかない。包囲されたレニングラードの人々は、文化と芸術を愛する心は、人間が人間である為に絶対に必要なことだという確信を持つに至ったのだった。人間が人間である為に、絶対に必要なもの。他の街でドイツ軍とソ連軍が銃を構え合って戦っている間、レニングラードの市民達は芸術活動をし、その芸術活動の場に足を運ぶことによって、まさに銃を持つのと同じように戦っていたのである。レニングラード包囲戦は人間性を賭けた戦いとなっていた。
そんな状況でのレニングラードにおける《レニングラード》交響曲初演である。芸術活動がこれまでにない大きな意味を持っている中で、レニングラード生まれの天才作曲家が、包囲の最中に作曲し、レニングラードに捧げた交響曲。これをレニングラードの街で演奏することは、人間性を破壊しようとするドイツ軍に対する最も大きな反撃になることは自明だった。指揮者はカール・エリアスベルク。なんとかかき集めたメンバーで演奏した。エリアスベルク自身も、他のオーケストラのメンバーも、ムラヴィンスキーやレニングラード・フィルのメンバーと違い、疎開することなくレニングラードに残っていたこととなる。疎開対象に選ばれなかったのか自ら残ることを選んだのかは、分からない。
この初演のエピソードについては改めてここで語る必要も無いだろうが、一点だけ。エリアスベルクが《レニングラード》交響曲を演奏するには足りないメンバーを揃える為に、戦場に出ているオーケストラのメンバーを戦場から戻して欲しいという前代未聞の要望をレニングラード防衛のソ連軍総司令官にかけあっている。この時には既にヴォロシーロフは更迭され、レオニード・ゴヴォロフという砲兵部隊出身の将軍がレニングラード防衛の指揮を取っていた。このゴヴォロフ、エリアスベルクの要望を承諾するばかりか、《レニングラード》演奏の際には万全の支援を行った。演奏会が始まる数時間前にドイツ軍の砲兵地に対する一斉射撃を命令。ドイツ軍砲兵部隊は大打撃を受け、ドイツ軍は《レニングラード》演奏会が終わるまでの時間に体勢を立て直すことが出来なかった。さすが砲兵部隊出身である。ちなみにゴヴォロフ、共産党のイデオロギー的には少し危ういところがあったようで、昇進が遅れたどころか、粛清の危機まであった。それをソ連軍に必要な人材だとして守ったのは、トゥハチェフスキーと対立し、満足にレニングラードをも守ることが出来なかった将軍、ヴォロシーロフだった。ゴヴォロフはレニングラード封鎖解除までその任を全うし、封鎖解除の直後、元帥に昇進している。
ゴヴォロフはソ連軍陣地にスピーカーを配置し《レニングラード》の演奏をソ連軍兵士も聞けるようにしたのはもちろんのこと、ドイツ軍にも聞こえるようにスピーカーをドイツ軍陣地にも向けた。また、ラジオからも《レニングラード》交響曲は流れた。ラジオで《レニングラード》交響曲を聞いたドイツ兵が、戦後、ソ連を訪れてエリアスベルクに会って次のように語っている。「それはゆっくりとではあったが、強烈な効果を我々に及ぼした。我々にはレニングラードを決して落とせないだろうという実感がきざし始めた。しかし、何か他のことも起こり始めた。我々は飢餓、恐怖、死よりももっと力強い何かが、人間でいようとする意志があることを見はじめたのです。」それは人間性への戦いであった。それはレニングラードの街だけでなく、包囲するドイツ軍の兵士をも蝕んでいた。しかし、決してそれに屈しない人たちがいた。《レニングラード》交響曲はそのシンボルとなり、人々はそこに集い、演奏した。1942年8月9日、レニングラードにてショスタコーヴィチの交響曲第7番が初めて演奏される。