ショスタコーヴィチ (1906~1975) 交響曲第7番〈レニングラード〉

新しい交響曲の作曲

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交響曲第7番の初版スコア

さて、にわかに暗雲立ち籠るレニングラード。そのレニングラードで、ショスタコーヴィチは新しい交響曲の作曲を始める。もともと交響曲第7番として構想していたアイデアもあったようだが、うまく作曲を進めることができずそのアイデアは破棄。新しく7月19日に作曲を開始する。8月始めの段階で、ショスタコーヴィチは体重が減り始めていた。食料不足の影響が出てきていたのである。しかし作曲のスピードは速かった。友人に1楽章の断片をピアノで披露。この時、既に自作とラヴェルの《ボレロ》との類似をショスタコーヴィチは自覚していたようである。ショスタコーヴィチは、《ボレロ》を真似たとの批判が出るだろうが気にしない、「戦争はぼくの耳にそんなふうに聞こえるんだ」と語っている。1楽章のあれは、ショスタコーヴィチにとっては確信に満ちた表現だったのである。第1楽章の草稿の完成は8月29日、清書の完成は9月3日。次の日、ドイツ軍のレニングラードへの爆撃が始まった。9月17日、ショスタコーヴィチはレニングラードのラジオに出演し、一時間前に新しい交響曲の第2楽章が完成したと話した。続けてショスタコーヴィチはこう話している。「どうして、私はこのような話をしているのでしょう。それは、今、私の話をラジオで聴いて下さっている皆さんに、この街で普段と変わることなく日常生活が営まれていることを、お伝えしたいからです。」

だが実際、この時には既に、レニングラードの芸術関係者の疎開が始まっていた。それは命令だった。ソ連は文学者・芸術家への統制・弾圧を常に行っていた国家だった。しかし、この非常時にソ連政府が文学者・芸術家に対してとった行動は、この国家が彼らを実のところどのように考えていたかを、如実に物語っている。彼らは守らなければならない存在だった。政府高官とともに、危険な地から脱出させなければならない。疎開するに際し、作風や共産党や政府への忠誠度合いが問題になった形跡は見当たらない。詩人のアンナ・アフマートヴァといった、その生涯の多くで弾圧を受けた詩人もレニングラードから中欧アジアのタシケントへと疎開している。ショスタコーヴィチの交響曲を数多く初演し、ショスタコーヴィチが絶大な信頼を寄せていた指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーも、彼の手兵たるレニングラード・フィルのメンバーとともに8月22日、レニングラードを離れている。無論、安全な旅ではなかったが、先の子供の疎開の時にあったドイツ軍が展開しているところに列車を走らせるという愚は犯さないぐらいには落ち着いていたようである。ムラヴィンスキー一行は9月4日、シベリアの中心都市、ノヴォシビリスクに到着した。危険な道中、快適とは言えない旅に誰もが疲労困憊していた。レニングラードを去ることも、決して安全な、容易いことではなかったのである。

ショスタコーヴィチにも当然、疎開命令が出ていた。ショスタコーヴィチはそれを無視してレニングラードに留まっていたのである。ドイツ軍のレニングラードの街への攻撃は始まっていた。一般市民にも犠牲者は多く出ており、また、飢餓が既に発生していた。この時のショスタコーヴィチには、郷土愛に近いナショナリズムと、自己犠牲の精神、それにひょっとしたら幾ばくかのヒロイズムがあったかもしれない。しかし、幼い子供を二人抱えたショスタコーヴィチが、それを貫徹させることは不可能だった。9月29日、第3楽章を完成。その晩にレニングラードの共産党本部から電話がかかってきた。命令だった。遂にショスタコーヴィチはレニングラードを離れることとする。10月1日、妻と子供二人と一緒に飛行機でモスクワへと向かう。一旦モスクワに渡り、そこから疎開先に向かうのだった。限られた荷物の中にあった譜面は、作曲途中の交響曲第7番、過去に完成させた歌劇《ムツェンスク群のマクベス夫人》のスコア、そしてストラヴィンスキーの《詩編交響曲》のスコアと自身が編曲したピアノ編曲譜、この三曲だけだった。飛行機のプロペラがまわり始めた。ショスタコーヴィチは空を飛び、レニングラードの地を離れる。そして交響曲第7番もまた、レニングラードの空に飛び立った。

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