チャイコフスキー(1840~1893) 交響曲第4番 ヘ短調 作品36

チャイコフスキーに於ける交響曲の位置づけとその変遷

チャイコフスキーの交響曲は〈4番〉以降の3曲の人気が高く、CD等でも〈4・5・6番〉を纏めて「3大交響曲」として売られていることが多い。これは演奏する側の事情と繋がっているわけで、〈3番〉より前の3曲を、〈4番〉以降と変わらないくらい積極的に振ろうという指揮者は激減してしまう。それに準じる多楽章形式の管弦楽曲として『組曲』を4曲残しているが、番外的な標題付き交響曲〈マンフレッド〉同様、その演奏頻度は更に少ない。唯一の例外は弦楽のための〈セレナード〉で、これは“弦楽合奏のための交響曲”といっても差し支えないほど充実した内容を備えているせいもあって人気が高く、《ワルツ》は単独でもBGM的に演奏されることが多い。

これらを成立年順に並べた表1を見ると、〈4番〉を書いた後、〈5番〉までの間に約10年ほど間が空いていることが分かる。〈4番〉までの交響曲で、民謡の直接引用、もしくは民謡的な主題を用いることで、ロシア色を出そうと試みた後、より普遍的で構築性の強固な交響曲を書くための『試行錯誤期』がくるのである。

【表1】チャイコフスキーの多楽章管弦楽曲

交響曲 第1番 作品13 1866年 (26歳)
交響曲 第2番 17 72年 (32歳)
交響曲 第3番 29 75年 (35歳)
交響曲 第4番 36 78年 (38歳)




組曲 第1番 43 79年 (39歳)
弦楽セレナーデ 48 80年 (40歳)
組曲 第2番 53 83年 (43歳)
組曲 第3番 55 84年 (44歳)
マンフレッド交響曲 58 85年 (45歳)
組曲 第4番 61 87年 (47歳)
交響曲 第5番 64 88年 (48歳)
交響曲 第6番 74 93年 (53歳)

ロシア的な作品の創作。『西欧派』対『5人組』

ロシアは既に大帝国ではあったが、音楽的にはイタリア、フランス、ドイツといった西欧先進国の後を追う立場にあり、国をあげて自国の音楽文化を創り出そうとしていた。1862年、アントン・ルビンシテイン(作曲家・ピアニスト)を院長にペテルブルグ音楽院が、1866年には、その弟ニコライ(ピアニスト・指揮者)によってモスクワ音楽院が創立された。この兄弟に代表されるのが『西欧派』。作曲や演奏の基礎となる音楽理論は、数学に近い。多くの若者に、その基本を教え、普及させようというのに、民族性みたいな曖昧でローカルな要素を中途半端に介入させるべきではないという『純音楽的』な志向は当然のことである。実際A.ルビンシテインの曲を聞くと、シューマンやブラームスみたいで、ロシア的な要素は殆ど感じられない。

そうした中、法律学校を卒業して法務省に就職した19歳のチャイコフスキーは音楽への思いを断ち切れずに、22歳の62年、創立されたばかりのペテルブルグ音楽院に入学、A.ルビンシテインに作曲を学ぶことになった。その才能は、モスクワにも音楽院を設立すべく、優秀な人材を物色していたニコライの目に留まり、66年の創立に際して作曲の教授として招かれたのである。その初年度には早くも交響曲第1番が作曲され、表1に続くことになるのだ。

その一方、1856~57年頃にバラキレフの「先進国の物真似ではなく、ロシア独自の民俗性を打ち出すべし」という主張にキュイとムソルグスキーが賛同し、後にリムスキー=コルサコフ、更にボロディンが加わった『新ロシア楽派』が結成された。『5人組』である。ペテルブルグ音楽院設立と同じ62年、“西欧派=官楽派”に対抗するかのように同じペテルブルグにバラキレフが無料音楽院を開設したことにも象徴されるように、両派は“官・民”の対立という側面も交えつつ、ロシア音楽界を牽引していくのである。

チャイコフスキーのスタンス

チャイコフスキーはA.ルビンシテインに師事したことによって、自動的に『西欧派』に属することになった。〈1番〉と同じ66年、ロシアの皇太子がデンマークから妃を迎えたことを記念して〈デンマーク国歌による祝典序曲〉を、更に同皇太子がアレクサンドルIII世として即位した折りには〈戴冠式祝典行進曲〉(83年)を作曲していることからも明らかなように、生涯を通じて“官”の側にいたことになるのだが、三つ年上のバラキレフからも一目置かれていた。それを物語るのが幻想序曲〈ロミオとジュリエット〉。その初稿(69年)は、バラキレフの発案によって、しかも提示された主題を、ほぼ指示されたとおりに組み合わせて作曲したほどだ。後に大改訂が施され、バラキレフの主題は別のものに置き換えられてしまうことになるのだが、こうした状況からは、誰もがその才能を認めていた逸材を、両派が自らの陣営に取り込もうとしていたらしい様子が窺われる。

チャイコフスキーは21歳で海外旅行を経験したこともあって、国際的な視野を持つことが出来た。バイロイト音楽祭の柿落しのレポート等、今で言う「国際的音楽ジャーナリスト」的な活躍もした人だけに、『西欧派』と『 5人組』双方の主張をミックスさせることによって、ロシアにも西欧にも受け入れられるコスモポリタンな音楽を創ろうとしたと見做せるのだ。ロシア的な民俗色が過度に土臭くなることなく、フランス的な洗練されたリリシズムと折り合い、大衆的な親しみやすさ(俗っぽさ)と、貴族的な上品さが同居する独自の音楽は、こうして生れた。

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