民謡に依存した組曲的な初期の交響曲から、循環形式への脱皮
初期の交響曲をみると、ロシア色を刻印した民謡的な主題を意図的に織込もうとした努力が窺える。〈1番〉や〈2番〉は『5人組』に近い発想から生れた交響曲と見做せよう。ワルツ楽章とスケルツォ楽章を個別に組み入れることで5楽章となった〈3番〉は、ドイツやポーランド風の音楽を加えることで国際色は増したものの、組曲に近いものになってしまった。
次に挑んだのは、主題によって全楽章を有機的に関係づけるという本格的な交響曲だった。手本は〈運命〉や、それを継承・発展させた〈幻想交響曲〉だが、それが実現するのは〈5番〉になってからで、その為に試行錯誤期が必要だったのである。
〈4番〉では『第1楽章の中心主題を、終楽章で再現させる』という、もう少し簡単な手段が採られた。序奏部で管によって呈示されるファンファーレ風の主題①がベルリオーズでいうなら「イデー・フィクス=固定観念」。チャイコフスキーは、パトロンとしての文通が始まったメック未亡人に宛てた78年2月17日の手紙で、“運命のリズム”を含むこの主題を、実際に『運命』と呼んでいる。
「これは運命です。幸福へ到達しようというわれわれの熱望を妨げる、あの宿命的な力です」
(「新・チャイコフスキー考」森田稔著/NHK出版より抄訳 – 以降※印にて表記)
ベートーヴェンの〈運命〉が、旋律ではなくリズム自体を主題化したことによって、短調の旋律と組み合わせれば“陰”に、長調の和音をかぶせれば“陽”に、といった具合に、状況に応じて性格変えるのに対し、〈4番〉の①は常に同一音型、同一リズムの音のオブジェとして『断罪を告げる神判のラッパ』のように鳴り響き、立ちふさがる。
『第1楽章の主題の再現によって両端楽章をリンクさせる』という手法は、ロマン派の時代、多くの作曲家が採用したもので、チャイコフスキー自身も〈弦楽セレナード〉で、再度試みている。ブルックナーの殆どの交響曲や、ドヴォルザークの弦と管、 2曲の 〈セレナード〉等も同様だが、この方法の利点は、両端楽章を同一主題でリンクさせ、入口と出口を固めておけば、中間楽章にどんな音楽を入れても、それなりの統一感が確保できることにある。
「“パンの間に具を挟む”という型を守ってさえおけば、何をどう挟もうと、サンドイッチやハンバーガーになる」のと同じ単純な料理法なのだが、〈 4番〉の場合は、①に断罪的な“陰=ネガ”という性格を確定させているために、『聞き覚えた主題に、ほっとする』という再会の喜びはない。〈トスカ〉のスカルピア、〈オテロ〉のイヤーゴ、〈ニーベルンクの指輪〉のハーゲン等、絶対的な悪の化身が劇を決定づけている作品のように、登場する度に強烈なインパクトを与えるのである。第1楽章の197小節~や359小節~で長調の和音で再現される場合も、幸運の女神に豹変したというよりは、勝ち誇った悪漢(ヒール)が高笑いしている感じに近い。
その典型が終楽章。チャイコフスキーは第2主題として民謡《野に立つ樺の木(白樺)》②をそのまま使用したのだが、後半部で、それが金管を中心にカノン風に繰り返され、民衆の祭典が頂点に達しようとする刹那、①がトランペットによって再現され、陰の極に引き戻されるのだ。
楽章について
第1楽章 へ短調 序奏部3/4拍子→主部9/8 序奏部付きのソナタ形式
①のネガティヴな性格を決定づけた序奏部のあと、主部は悲哀を引き継いで、愁いを湛えた第1主題③aから始まる。序奏部3/4の1拍を3連符的に分割した[3/8+3/8+3/8]を1単位(1小節)とする9/8のワルツで、交響曲の第1楽章としては拍子的にも斬新な試みだ。この③aは最初からシンコペーシヨンが仕組まれているのがポイント。ワルツでは、[3+3]の2小節=6拍を、タイによって[2+2+2]に置き換えるヘミオラがごく普通に登場するが、クライスラーの〈愛の哀しみ〉や、この③aのように主題を最初からヘミオラで始める例は少ない。この楽章では、こうした前衛的な試みが数多く見られるが、それらについては纏めて後述する。
第2主題部は木管による④と、それに呼応してチェロ(再現部はホルン)が奏でる息の長い⑤からなる。オペラに於ける二重唱を思わせるこのデュエットがもたらす一時の幸福についてチャイコフスキーは、こう述べている。
「甘く、優しい夢が姿を見せた。恵みを与えてくれる、明るい人間の姿のようなものが現れ、どこかへ手招きします。」※
他にも、天才的な旋律作家ならではの印象的な主題が数多く登場するが、第1楽章は、以上のような「運命」「嘆き」「夢と願望」の三つのせめぎ合いを軸に展開。その闘いは後半になるほど激しさを加え、「運命」に打ちのめされた「嘆き」が、③aの拡大型で絶望の叫びを上げるトゥッティの頂点を経て“地獄落ち”的に閉じられる。