チャイコフスキー(1840~1893) 交響曲第4番 ヘ短調 作品36

第2楽章 変ロ短調 2/4 複合3部形式

緩徐楽章で、オーボエによって提示されるメランコリックな中心主題⑥、その悲哀を受け継ぎながらも幾分か希望を感じさせる第2主題⑦、長調に転じて力強く前進するような第3主題⑧からなる。

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「悲しみのもう一つの側面を表現しています。夕方、仕事に疲れ、一人腰掛けて本を手にとっても、滑り落ちてしまうような時に姿を現す、ゆううつな感情です。~過去をいとおしく思うだけで、もう一度人生を始める気力はありません。~休息して過去を振り返るのは楽しい。若い血が充溢して、人生が満足を与えてくれた喜びの時も、取り返しのつかない喪失の瞬間もありました。これらの全てが、もうどこか遠くに行ってしまいました。思い出に浸ることは悲しくもあり、何か甘ったるくもあります。」※

第3楽章 スケルツォ ヘ長調 2/4 3部形式

ピチカート・オスティナートという表記のとおり、弦は楽章を通じて弓を持たずに、指で弦をはじき続ける。2拍子で快速のスケルツォ楽章というと、メンデルスゾーンの〈スコットランド〉やシューマンの〈2番〉等の先例があるが、ピチカート奏法の躍動感は効果的で、楽章全体に活気とパントマイム風なユーモアをもたらす。

「お酒を少し飲んだ時に脳裏をかすめる気まぐれなアラベスクであり、捉えがたい姿です。~空想に身を任せると、奇妙な絵を描き始め、突然、ほろ酔い気分の農民達の様子や、流しの歌が浮かんだかと思うと、遠くで兵隊の行進が通り過ぎます。眠りに落ちる時に頭をかすめる全く脈絡のない幻影。奇妙で、粗野で、支離滅裂です。」※

4小節単位のメトリークを反復する主題⑨がスケルツォ主部の飛翔感を決定づける。軽快な4拍子の舞曲に聴こえるが、やがて、その周期的な律動を崩す変拍子的な遊び⑩に突入。それが静まりかけたところに、酔漢が大声を上げて闖入してきたかのように中間部のエピソードが始まる。トリオにあたるこの部分に関しては、チャイコフスキー自身の解説のとおりだが、少し後のマーラーやアイヴズ、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチがこうした、唐突な“闖入ギャグ”を更に過激な形で発展させたことは指摘しておくべきだろう。それを体験した分、我々の耳には、洒落た古典落語みたいに聴こえる。

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後半部はピチカートのスケルツォ主部が、ほぼそのまま反復されてS-T-Sのシンメトリーを形成した後、トリオのギャグが短縮再現され、睡魔でグラスを落としたみたいに結ばれる。

第4楽章-フィナーレ ヘ長調 4/4 ロンド形式

シンバルと大太鼓の一撃で、謝肉祭的な歓喜に雪崩込む。この活気に溢れる第1主題⑪に続き、《野に立つ白樺》②がロシアを刻印。更に大集団が踊るような力感的な⑫が、歓喜のボルテージを高める。

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この3つが、多少姿を変えながら繰り返され、その主導権を握った形で《白樺》②が金管を中心にカノン風に連呼されて頂点に達すると思えた瞬間、「運命」①が立ちふさがる。しかし、それが奈落おちには繋がらず、静寂から祭が再現され、熱狂的な歓喜の内に結ばれる。

既に大勢が決したと思えるコーダに、“死の象徴”として〈ディエス・イレ〉が威嚇的に再現される前例として〈幻想交響曲〉があるといっても、ドラマトゥルギー的には、この終わり方は解釈が難しい。チャイコフスキー自身は、こう述べている。

「自分の中に喜びを見出せないなら、民衆の中に入っていって、彼らが歓喜に身を任せて楽しんでいる様子をご覧なさい。~人々の喜びの渦に巻き込まれそうになった瞬間、しつこい「運命」が再び現れて注意を喚起します。でも人々は、あなたの事どころではなく、見向きもしません。あなたが孤独で悲しいことに気づきません。彼らは何と陽気なのでしょう! この世は全て悲しいなどと言わないことです。他人の喜びを、共に享受しなさい。素朴だとしても、力強い歓喜は存在します。いずれにしても、生きていくことは出来るのだから。」※

主題としての〈運命〉だけではなく、ベートーヴェンがシラーの詩を借りて表わそうとした〈 第9 〉のコーダに近い肯定的な主張が、ここには在る。個の苦悩を民衆の歓喜によって止揚するという社会思想的な弁証法が窺えるように思う。

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