
演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。
20世紀文化史に燦然と輝くディアギレフとロシア・バレエ団。この両者については既に様々な場に於いて語り尽くされている感があるが、今回と次回の千葉フィルのプログラムにロシア・バレエ団にゆかりの深い曲が取り上げられることもあって、これを機会に私もその末席に加わってみようかと思う。
ロシア・バレエ団はパリに於いてその名の通り、ロシア的なものを売りとした。西ヨーロッパにとって、ロシアは半分はヨーロッパに属しながらも、もう半分はアジアに属したものであり、異国情緒を感じさせるに十分なものであった。時は20世紀の初頭、あらゆるものを商品にして消費し尽くす資本主義が最初のピークを迎えた頃のこと。そして場所はパリ、人と物が頻繁に行き交うシステムが完成し最新のモードを次々に産み出す享楽の都、であった。
ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。
1828年に31歳で早世したシューベルトと、5年後の1833年に生れたブラームス。その接点が、1880年代にブライトコプフ社が刊行したシューベルト全集で、ブラームスが交響曲の巻の編纂を担当したことにあるのは拙著『交響曲の名曲・1』で述べたとおりだ。しかし1822年前後に作曲されたまま眠り続け1865年に初演された〈未完成〉と、それより前の1861年に完成・初演されたブラームスの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉との関係をひもとくのは一筋縄ではいかない。鍵は『ハンガリー・ジプシーの音楽』にある。