ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 シェーンベルク編曲版

交響曲をどう終わらせるか。ベートーヴェンの重圧。

ハイドンが100曲以上も交響曲を書き、モーツァルトも40曲を超えたのに、ベートーヴェンが9曲しか残さなかったのは後の交響曲作曲家にとって大きなプレッシャーとなった。数の少なさではなく、作曲家が芸術家としての全能力を注ぎ、思想的な主張まで折り込んだ選りすぐりの傑作として交響曲を位置づけなければならなくなったからだ。そのためブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルジャーク等は、古典派の時代だったら交響曲としてもおかしくない内容の曲を、〈セレナード〉や〈組曲〉として発表することになる。シューベルトがロ短調交響曲を未完成のまま残した理由を、そうしたあたりに求める学者も少なくない。

シューベルトは6曲の未完成交響曲を残しているが、そのうちの5曲は〈6番〉を作曲した19歳より後に集中している。楽想は幾らでも湧いてくるのから、素材は直ぐに出来てしまうのだが、それを纏めあげてベートーヴェンに較べて見劣りしないような4楽章仕立ての大交響曲として仕上げるのが至難の業だったからだ。ロ短調の〈未完成〉の場合は、第1楽章からトロンボーンを使うのに加え、最初から大衆音楽としてのジプシーの要素を導入するなど、ベートーヴェンを越えようとする新機軸を採用して意欲満々で前半2楽章を書き終えたものの、その着地の仕方に手こずり、仕切り直し的に再挑戦したハ長調の〈グレイト〉で、一応、一つの解答を見出したところで神に召されたのである。

ブラームスの場合も2曲のピアノ協奏曲を、その内容の重厚さから『ピアノ独奏付きの交響曲』と呼ぶこともあるし、例えば〈交響曲第5番〉になるはずがヴァイオリンとチェロの〈二重協奏曲〉になったように、交響曲として着想した素材を、結局は違う形の曲に仕上げたケースも多い。

ブラームスは43歳の1876年に完成・初演した〈1番〉を含めて4曲しか交響曲を残していないのだが、シェーンベルクの堂々たる編曲でお聴きになれば、それより15年前に初演されたこの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉こそは、2曲の〈セレナード〉よりも『幻の交響曲』に相応しいことを実感されるに違いない。シェーンベルクは、冗談めかして「ブラームスの〈5番〉」と呼んでいたそうだが、原曲の成立年代を考慮するなら、ブルックナー風に〈0番〉とする方が似合いではあるまいか。しかしその場合に引っ掛かる可能性があるのが、ジプシー音楽風のフィナーレなのだ。

フィナーレを締め括る『ジプシーの音楽』による熱狂

シェーンベルクは長さや構成は原曲を尊重して、オーケストレーションだけに仕事を限っているので比較し易い。もし仮にブラームス自身が同様の試みを行なったとしたら、色彩は比べ物にならないくらい地味になったに違いないにしろ、シェーンベルクの編曲版と同じく原寸大の交響曲的な大作が出来上がったのは間違いないのだ。もし、それを〈交響曲第1番〉として発表したなら、当時の批評は、前半3楽章の北ドイツ的な重厚さを認めつつも、新進気鋭の若手が力及ばず、第4楽章で「大衆音楽へ擦り寄った」として批判した可能性が強い。

我々が、こうしたフィナーレにそれほど違和感を感じないのは、既に後の〈ハンガリー舞曲集〉の編曲者としてのブラームスを知っていることも大きい。更には、チャイコフスキーの交響曲〈第4番〉やドヴォルジャークの〈8番〉等、民俗音楽的・民衆音楽的な要素を打ち出したフィナーレを結論とする交響曲が歴史的に承認されてしまってから後の耳で聴いているという事実も忘れてはなるまい。

結局ブラームスは、交響曲の終楽章としては4曲とも構成的に凝った『芸術音楽』として誰からも後ろ指を差されないフィナーレを書いたわけだが、このシェーンベルク編曲版を体験すると、血気盛んだった20代に、こうした舞曲的な乗りで最後にエネルギーを開放するタイプの交響曲 -- ベートーヴェンの〈7番〉やメンデルスゾーンの〈イタリア〉を継承してバッカス的な熱狂で終わるタイプのシンフォニーを発表しても良かったのではと思えるのだ。少なくとも筆者は、シェーンベルクの優れた編曲に感謝しつつ、後の4曲に比すべき本格的な交響曲として演奏するつもりである。

話を〈未完成〉に戻そう。一頃〈未完成〉を完成させようという試みが真剣になされ、作曲を公募するコンクールさえ行なわれたこともある。それをブラームス=シェーンベルクによる〈0番〉的な解答から遡って考えてみると、シューベルトの場合も、ハンガリー・ジプシー的なフィナーレ楽章という選択肢もあり得たのではないかという気がしてくる。今回この2曲が並んだのは偶然の賜物だが、〈未完成〉の『幻のフィナーレ楽章』という観点から、想像を巡らすのも一興であろう。

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