「ブラームスがお好き」だったものは?
ブラームスはラフマニノフと同じく四つの交響曲を残している。(ラフマニノフの《交響的舞曲》は実質的に交響曲と同じボリュームと内容を備えているので、交響曲とカウントする。)しかし、ラフマニノフが交響曲第1番を、そのキャリアの出発点に近いところで果敢にも発表した(そして無惨にも大失敗した)ことに比べ、ブラームスは、最初の交響曲を時間をかけて完成させ、自分の名声が確固としたものになった時点で発表しているという違いがある。ブラームスは交響曲第1番では、重厚でカタルシスのあるクライマックスとフィナーレを形成することに成功し、見事にベートーヴェンの後継者の地位を獲得することに成功したが、この交響曲第4番の終楽章はバロック以前の時代にまで起源をさかのぼるパッサカリアという古めかしい舞曲の形式を用い、終わり方も派手さとは無縁の厳しくそっけなささえ感じさせる終わり方となっている。
もともと、ブラームスは十分なクライマックスを築いたうちに堂々と終わる、というフィナーレの形式がそれほど好きではなかったと思わせるものがある。筆者にとって、それが一番顕著に感じられるのはピアノ協奏曲第2番(1881年)。この曲は交響曲の如く四つの楽章を持ち、堂々とした第1楽章、スケルツォ的な第2楽章、美しく穏やかで瞑想的な第3楽章という、3楽章まではベートーヴェンの第九交響曲を思わせるほどのシンフォニックな構成となっている。そしてそれを締めくくる第4楽章、ベートーヴェンが打ち立てた規範に従えば前三つの楽章を受けて堂々と全曲が締めくくられるはずなのだが、それが軽いのだ。冒頭から軽やかにピアノは歌い、流れ、そしてあっという間に終結に行き着く。堂々とした強奏で幕を閉じるピアノ協奏曲第1番(1857年)と比べた場合、これは聞く者に多少の肩すかし感を与えかねるものでもあるのだが、ブラームス自身は好んでこの軽いフィナーレを選択した感がある。そもそも、多楽章形式の器楽曲において、ブラームスは堂々としたフィナーレを書いたことは稀なことだったかもしれない。
《セレナード第1番》(1860年)は、ブラームスのキャリアの最初期の作品で、室内楽編成の作品を元にしたオーケストラ曲として仕上がっている。このオーケストラ版《セレナード第1番》を聞くと、音楽的にも技法的にも、このころのブラームスに既に交響曲を作曲するだけの力量が備わっていることがわかるのだが、この《セレナード第1番》も、終楽章が軽いのだ。もともと室内楽作品であり、軽やかなフィナーレでも全然問題はないのだが、6楽章まであるこのセレナードの体裁を変えて4楽章にして交響曲にした場合、軽い楽章のままでは「4楽章でそれまでの展開を生かしきれなかった」という批判を免れることは出来なかっただろう。現代の視点から判断した場合、そういった軽いフィナーレを持った交響曲でもなんら問題は無いとも思えるのだが、交響曲というジャンルの生き死にがかかっていたこの時代においては、前の楽章を十分に受けた上での終楽章を持つ交響曲が待望されていた。
さらに言えば、ブラームスのピアノ四重奏第1番。「ジプシー的」ともいえる情熱的な熱さと勢いに溢れた最終楽章を持つこの室内楽の作品を、前述のシェーンベルクが大規模なオーケストラのために編曲した版があり、そのシェーンベルク版を千葉フィルハーモニー管弦楽団は過去に演奏している。その際の金子氏の曲目解説が千葉フィルのホームページに掲載されているので、興味のある方はそのページをお読み頂きたいのだが、金子氏はこう指摘している。ブラームスは若い時代に「こうした舞曲的な乗りで最後にエネルギーを開放するタイプの交響曲ーベートーヴェンの〈7番〉やメンデルスゾーンの〈イタリア〉を継承してバッカス的な熱狂で終わるタイプのシンフォニーを発表しても良かったのでは」と。ブラームスは「堂々とした」フィナーレでなければ幾らでも交響曲の終楽章を作曲出来る力量は持っていたし、それらの作品は現代でも高い評価を得ていた可能性がある。そして、そもそもそブラームス自身が、初期はもちろん晩年に至るまで、堂々としたものではなく軽く流れたり熱狂的な嵐の仲に終わったりといったタイプのフィナーレの方が「好み」だったのではないかと思えるのだ。