交響曲第1番は、そういった自分の好みを脇において「ベートーヴェン的」なフィナーレを作曲し(前述のようにベートーヴェンには交響曲第7番のような熱狂的に終わるフィナーレもあるので、これは論理的な言い方ではないのだが)、交響曲の分野において、遂にベートーヴェンの後継者の地を獲得した。そういった、いわば「課題」を果たした後のブラームスは、段々と自分が本来好きな形に戻っていったのではないか。交響曲第4番のフィナーレには、そういったブラームスの姿が一つの形として出ているようでもある。
交響曲第4番は1885年に完成している。ブラームスがこの世を去ったのは1897年なので、その死までは10年以上もあり、交響曲第4番以降も、《二重協奏曲》(1887年)や《クラリネット五重奏曲》(1891年)といった傑作が完成している。とはいえ、交響曲としてはブラームス最後の作品となった。初演はブラームス自身の指揮によるもの。全体的にハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンといったウィーン古典派の形式に依りながらも、それ以前の音楽を思わせるテイストが全般的に散りばめられているようでもある。とはいえ、この時代、古い時代に目を向けるということは最先端の行為でもあった。19世紀というのは今のような「音楽史」が出来上がっておらず、ハイドンよりも前の時代の音楽、現在では「音楽の父」とされるJ.S.バッハでさえも、その譜面は広く一般に出回っているということはなく、「知る人ぞ知る」というような存在だった。世間一般のJ.S.バッハのそのような認識を変えたのが、若きメンデルスゾーンによる《マタイ受難曲》の蘇演である(1829年)。これによりバッハは蘇り、徐々に偉大で規範となるべき音楽家として認知されるようになるのだが、ブラームスもどんどんと出版されていくJ.S.バッハの譜面に手を取り、深い感動を得ることになる。
古い時代への回帰と、シェーンベルクが賞賛した新しい技法の集積(シェーンベルクの先の論文には交響曲第4番を例として解説している箇所もある)が、ブラームスという確固とした芸術家の元で一致を遂げた交響曲が、この交響曲第4番である。それは、ブラームスの最後の交響曲であると同時に、古典的な枠を保った形でのロマン派の最後の交響曲ともなる。これ以降、ロマン派の交響曲はマーラーによって、いよいよその姿を最後の形態へと変えていく。マーラーの音楽に拒否反応を示したブラームスだが、ブラームスが終わらせることによってマーラーは新しい道へと進むことが出来たのかもしれない。そして、ブラームス自体に新しさを見いだしたシェーンベルク。終わりと始まり、始まりと終わり。偉大な芸術は常にその二つが重なり合っている。これこそが芸術の力であり、それを産み伝え発展させてきた人間達の力であろう。