曲目解説

演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。

チャイコフスキー (1840~93) イタリア奇想曲 作品45

tsch-ita-thumb1880年1月4日~5月15日(この稿の表記は、すべて旧暦)作曲。同年12月6日、モスクワでN.ルビンシテインの指揮によって初演。

19世紀ロマン派の作品からイタリアに因んだ作品を並べてみると、ベルリオーズの交響曲〈イタリアのハロルド〉(1834年)・序曲〈ローマの謝肉祭〉(1844)、メンデルスゾーンの交響曲第4番〈イタリア〉(1833・37)、リストのピアノ曲〈巡礼の年〉第2年《イタリア》(1837~49)《ヴェネツィアとナポリ》(1859)、R.シュトラウスの交響詩〈イタリアより〉(1886)、ヴォルフ〈イタリアのセレナード〉(1886)等、“外国人が見たイタリア”のオンパレードだ。この〈イタリア綺想曲〉は、その中央に位置する人気作である。

続きを読む

プロコフィエフ〈6番〉に隠された運命主題

〈6番〉では、革命や戦争の象徴としての『運命主題』が重要。そのルーツを説明するには、ナポレオン戦勝利を祝って1813年に初演された〈ウェリントンの勝利〉が分かり易い。そこでは、英仏両軍が左右の軍楽で示されるのだが、英国軍が[E1]の小太鼓と[E2]のトランペットで、フランス軍が[F1][F2]で対峙する。この伝統的な軍楽には『運命主題』が、3連符の形Aで含まれている。これを戦争に対する警告として用いたのがハイドンの〈軍隊〉で、より組織的に用いたのが〈エロイカ〉と〈運命〉だが、後者の影響が最も大きいのは言うまでもあるまい。

 

続きを読む

セルゲイ・プロコフィエフ (1891~1953)  交響曲第6番 変ホ短調 作品111

prokofiev-gravestone-thumb苛烈な戦いが繰り広げられていたロシア。プロコフィエフは映画監督エイゼンシュテインと共に、モスクワから遠く離れた中央アジアのカザフスタン共和国の首都、アルマ・アタ(現在のアルマトイ)にいた。戦火を避けての疎開である。そしてこの地で、エイゼンシュテインが撮影を進める《イワン雷帝》の音楽を作曲する。ロシア革命を避けて出国したプロコフィエフが、ソ連に「帰国」してからおおよそ10年が経つ頃のことだ。

 

続きを読む

セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943) 交響詩《死の島》の構造分析と自演盤

別稿のように、ラフマニノフが霊感を受けたのはベックリンの油彩画ではなく、M.クリンガーの「死の島(ベックリンの原画による)」という銅版画だった。後に原画を見て明るい色調に驚き「これを見ていたらあの曲は書かなかっただろう」と述べたという。

 

続きを読む

セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943) 交響詩《死の島》

rachmaninovベックリンの《死の島》

ピアノ協奏曲第2番の大成功によって、交響曲第1番の初演の失敗を払拭したラフマニノフ。そして交響曲第2番の初演は喝采をもって迎えられた。幸せな家庭を築き私生活も充実して、作曲家としても円熟を迎えた頃、ラフマニノフは一枚の絵から着想を得て一編の交響詩を作曲する。それが交響詩《死の島》である。

 

続きを読む

リヒャルト・ワーグナー (1813~83) 歌劇 《リエンツィ》 序曲

wagner thumbワーグナーがケーニヒスベルクの指揮者をつとめていた23歳の頃、E.B.リットン(英・1803~73年)の小説「コーラ・ディ・リエンツィ」(1835)に触発され、38年にリガで台本を完成。リガ→パリ→ドレスデンと遍歴する間にスコアを書き上げた。ラインガーの指揮によって42年10月20日ドレスデン宮廷歌劇場で行われた初演は、画期的な大成功となり、同劇場の楽長就任へと繋がった。その後〈さまよえるオランダ人〉〈タンホイザー〉で地盤を固めたかのように見えたが、1849年に勃発した革命の際、宮廷楽長の身でありながら革命側に加担したために、一転、政治犯として終われる身となり、スイスへと逃れることになる。

続きを読む

関連記事