以前は、それほど感じなかったのだが、ブルックナーに深入りした後で、改めてフランクを聴いてみたら、2人の共通点があまりにも多いのに改めて驚かされた。それを説明すると、この曲の解明が殆ど済んでしまうので、共通点を列挙してみよう。
演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。
以前は、それほど感じなかったのだが、ブルックナーに深入りした後で、改めてフランクを聴いてみたら、2人の共通点があまりにも多いのに改めて驚かされた。それを説明すると、この曲の解明が殆ど済んでしまうので、共通点を列挙してみよう。
世紀が変わる少し前の1899年、パリの極めて裕福な家庭に生まれたフランシス・プーランクは、ピアノを達者に弾く母の影響を強く受け、幼い頃からピアノに親しむ。8歳の頃にドビュッシーの音楽を初めて耳にし直ぐにその虜になったが、小さな手ではドビュッシーのピアノ曲は満足に弾くことができず、幼いプーランクはとても悔しがったという。成長したプーランクは本格的にピアノを学びはじめるが、その頃から作曲も手がけるようになる。そしてまた、パリに集う若く才能溢れる音楽家達とも親しく付き合うようになり、前回の演奏会でその交響曲第三番を取り上げたオネゲルらと共に、〈六人組〉と呼ばれた若き才能溢れる音楽家グループの一人として名を広く知られるようになる。
リヒャルト・シュトラウスは1864年、バイエルン王国の首都ミュンヘンで生まれた。父親は名ホルン奏者。R.シュトラウスは早くから音楽の才能を発揮し、20歳を過ぎる頃には既に名指揮者として名を知られる存在となっていた。そしてまた、この頃から本格的な作曲も手がけるようになる。1888年、《ドン・ファン》完成。翌年の作曲家自身の指揮による初演は大成功であった。ここから、R.シュトラウスの快進撃が始まる。数々の交響詩は当時から今に至るまで、常にオーケストラのレパートリーであり続ける。
1884~85年(43~44歳)に作曲。85年4月22日、ドヴォルジャーク指揮によるロンドン・フィルハーモニー協会で初演。初演時から大成功で、その評判から同年中に当時最も名声の高かった大指揮者ハンス・リヒターがオーストリアで、ハンス・フォン・ビューローがドイツでの初演を指揮し、楽譜も同年中に大出版者のジムロックから出版された。つまりドヴォルジャークの交響曲作曲家としての評価を確定させた名曲ということになる。なお当時は〈2番〉として出版され、生前はその番号付けが定着していたが、1955年に、チェコで未出版の交響曲を加えた全交響曲の番号付けが見直された際、〈7番〉に確定し、現在に至っている。
オネゲルはフランス近代を代表する作曲家の一人として知られているが、オネゲルは自らのことを100パーセントのフランス人だとは考えていなかった。生まれはフランスの地方都市ル・アーブルであるが、両親はスイス人、プロテスタントの家庭だった(フランスはその大部分をカトリック教徒が占める)。その為、フランスで生活しフランスの学校に通ったにも関わらず、オネゲルはフランスのものとは異なる「スイス的感性」を自らの中に意識するようになる。結局、オネゲルはその人生の殆どをフランスで過ごすのたが、生涯、その「スイス的感性」を捨て去ることはなかった。しかしもちろん、生活の場としてのフランスの影響も しっかりと受けている。そうした、いわばアイデンティティの二重性をオネゲルは自覚していたのだが、それはオネゲルの音楽にも決して無縁では無かった。
〈交響三章〉は、芥川が東京音楽学校を卒業した翌年、1948年に作曲した作品である。1948年といえば、まだ戦後間もない頃、芥川自身によれば、学校に通うよりも、ヴァイオリンの流しで生活の糧を稼いでいた時代だ。
芥川也寸志は、文豪 芥川龍之介の三男として生まれた。しかし、龍之介は、也寸志が2歳のときに自殺しており、也寸志自身に父の記憶はない。彼にとっての父は、尊敬する存在でありながらも、書斎に掛けられた怖い顔の写真であり、その書斎に置かれていた手回し式の蓄音機であった。