作曲は1907~08年、50~51歳。その後1910~11年に〈2番〉を完成、未完の〈3番〉を残して1937年に亡くなっている。初演は08年12月3日、マンチェスターでハンス・リヒター指揮のハレ管弦楽団。空前の大成功だった。
アーカイブ
R.シューマン (1810~1856) 交響曲第2番 ハ長調 作品61
シューマンのオーケストレーションをいかに料理するか
シューマンのオーケストレーションに問題があるというのは、昔から指摘されていたことだが、まずシューマン(1810年生~1856年没。今年は没後150年)の前後で交響曲や管弦楽曲で名が挙がる大作曲家を生年順に並べてみよう。
プロコフィエフ(1891~1953) バレエ音楽《シンデレラ》から
「灰かぶり」の物語
《ロメオとジュリエット》の成功を受け、レニングラードのキーロフ劇場はプロコフィエフに新作バレエ《シンデレラ》の音楽を依頼する。この頃のプロコフィエフは再婚を果たし、またソビエト連邦の地に於いて安定した地位と名誉を獲得するなど、非常に充実した活動を送っていた時期であった。意欲を持って作曲に取りかかったプロコフィエフであったが、独ソ戦の勃発により作曲は中断。結果として1941年から1944年までの長丁場に渡っての作曲となった。バレエの初演は1945年。バレエも音楽も共に絶賛を浴び、現在でもプロコフィエフのこの音楽によるバレエは、バレエの重要なレパートリーの一つとなっている。
グスタフ・マーラー(1860~1911)交響曲第10番 補筆5楽章版

ディアギレフとロシア・バレエ団 (上)
20世紀文化史に燦然と輝くディアギレフとロシア・バレエ団。この両者については既に様々な場に於いて語り尽くされている感があるが、今回と次回の千葉フィルのプログラムにロシア・バレエ団にゆかりの深い曲が取り上げられることもあって、これを機会に私もその末席に加わってみようかと思う。
ブラームスの「交響曲第5番」?
ナチス政権の成立によってドイツを追われることとなったシェーンベルクは、パリを経てアメリカに亡命する。その地でシェーンベルクはオーケストラ作品への編曲を幾つか手がけるが、その一曲にブラームスが若かりし頃に書いたピアノ四重奏曲もあった。シェーンベルクは出来上がったこの編曲に大変満足し、聴衆からも高い評価も獲得する。中には「ブラームスの交響曲第5番」というものまであった。しかし、実際のこの曲はブラームスが決して自らの交響曲に使わなかった楽器や特殊奏法のオンパレードであり、そして何より、ジプシー音楽的な情熱をそのまま表現した音楽それ自体、ブラームスが決して交響曲の題材に選ばなかったものである。そのことを考えると、この編曲をブラームスの交響曲第5番と呼ぶことは、やはりあまり適当なこととは言えない。しかし、一つ視点を変えてみると、また違った様相が見えてくる時がある。
「みなさん、ワルツを!」 −ソビエト・ワルツ−
ソビエト連邦の最も偉大な作曲家を3人挙げろという設問があったならば、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリヤンという3人の名前を挙げるのが最も妥当なところであろう。この3人に共通する音楽的傾向は何か。例えば金管の咆吼や炸裂する打楽器。これは確かに3人に共通で、かつその音楽を決定的に刻印づけるものである。ではその3人が共に得意としたスタイルには何があるのかと聞かれたならば、どう答えればよいのか。
チャイコフスキー(1840~1893) 交響曲第1番ト短調 op.13 《冬の日の幻想》
「チャイコフスキーがブルックナーに似ている」と書くと疑問に思われる方が多いだろう。一つは、作品の多くが関係者の酷評や提言によって改訂されていることだ。ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲〈第1番〉、〈白鳥の湖〉等の代表的な名曲がそうで、チェロの〈ロココの主題による変奏曲〉のように、変奏曲の順番の入れ換えを含めたチェリストによる改訂版が完全に定着してしまっている曲もあるくらいだ。
「千葉フィルらしさ」って?千葉フィルを演奏曲目から考える
「今日の演奏会は千葉フィルらしかった」とか「今回の選曲はあまり千葉フィルらしくないよな」とか。普段このオーケストラで活動する中で、「千葉フィルらしい」という言葉を良く聞きます。私自身も頻繁に使いますし、千葉フィルの人でもそうでない人でも、それで意味するところは概ね通じているような気がします。
しかし、この「千葉フィルらしさ」って一体何なのでしょう?金子さんがこうと言ったわけでは無いですし、「千葉フィルらしさとは、こうだ!」と団で定めたわけでももちろんありません。
そこで、今回は過去の演奏曲目から、この「千葉フィルらしさ」とは何なのか?を考えてみることとしました。「千葉フィルらしさ」。このよく使われるくせに漠然とした言葉の正体は、一体如何なるものなのでしょう。
ディアギレフとロシア・バレエ団 (下)
ロシア・バレエ団はパリに於いてその名の通り、ロシア的なものを売りとした。西ヨーロッパにとって、ロシアは半分はヨーロッパに属しながらも、もう半分はアジアに属したものであり、異国情緒を感じさせるに十分なものであった。時は20世紀の初頭、あらゆるものを商品にして消費し尽くす資本主義が最初のピークを迎えた頃のこと。そして場所はパリ、人と物が頻繁に行き交うシステムが完成し最新のモードを次々に産み出す享楽の都、であった。
ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 シェーンベルク編曲版
〈未完成〉との間を繋ぐ鍵としての『ハンガリー・ジプシーの音楽』
1828年に31歳で早世したシューベルトと、5年後の1833年に生れたブラームス。その接点が、1880年代にブライトコプフ社が刊行したシューベルト全集で、ブラームスが交響曲の巻の編纂を担当したことにあるのは拙著『交響曲の名曲・1』で述べたとおりだ。しかし1822年前後に作曲されたまま眠り続け1865年に初演された〈未完成〉と、それより前の1861年に完成・初演されたブラームスの〈ピアノ四重奏曲・第1番〉との関係をひもとくのは一筋縄ではいかない。鍵は『ハンガリー・ジプシーの音楽』にある。