作曲はスメタナ50歳の1874年~79年。先にI~IIIの3曲が初演され、全6曲の初演は、1882年11月5日アドルフ・チェヒの指揮でおこなわれた。大成功だったが、耳の病いに冒されていたスメタナは、もはや聴くことは出来なかった。曲は、初演の街プラハ市に捧げられており、毎年、スメタナの命日5月12日に国際的音楽祭「プラハの春」の初日を飾って全曲が演奏される。概要は別稿のとおりなので、ここではその補足と、楽曲分析を中心にコメントしていく。
スメタナの名前は「Bedřich」と書くのだが、これはどう読むのか。「ベドルジハ」というのがカタカナでの一般的な表記であるようだが、実はこの名前、カタカナ表記にするにはかなり無理がある。「r」の上にある逆三角形の記号、これが非常に厄介なのだ。この逆三角形の記号、チェコ語でハーチェクというが、このハーチェクのついた「ř」という文字、クラシック音楽ファンならばどこかで目にしたことがあるかもしれない。
お待たせしました!!今夜のゲストはチューバを代表して、井上さんです\(^o^)/イエーイ 代表ってチューバ1人でしたね(;^_^A 1人ならではのご苦労があるようです。
それではインタビューいってみましょう!!(注:この取材は一昨日行いました。)
20世紀初頭の傑作バレエの殆どはディアギレフが主催するロシア・バレエ団との関わりから生まれたと言っても過言ではない。古代ペルシャの神話を題材にした〈ラ・ペリ〉もその一つで、デュカ(デュカス)は、作曲家として円熟期を迎えていた1911年に依頼を受けて着手。登場人物は、妖精ペリと王イスカンデルの2人のみで、人間の不老不死への執着を主題とする「1幕物の舞踊詩」だった。
今回のようにコンサートで抜粋演奏をする場合、バレエ全曲版のスコアから筋書き順にピックアップして並べていけば良さそうに思えるが、そう簡単にはいかない。別稿にもあるように、組曲は離れた場面の音楽をつなぎ合わせて1曲にしていることがあるからだ。しかも、一般ファンがCMで人気になった《モンタギュー家とキャピュレット家》をCDで楽しもうとすると、組曲版で録音された盤を買うことになる。もう一つの人気ナンバー《タイボルトの死》も同様なのだが、そうした組曲版CDで憶えたファンが、全曲版から抜粋した該当場面の音楽を聴いた場合、盛り上がったところで音楽が中断したり、別の場面の音楽に飛んでしまったりということで、楽しみが半減ということになりかねない。
グリーグに続く北欧の大作曲家といえばフィンランドのシベリウスが名高いが、デンマークのカール・ニールセンもまた、シベリウスと同様に交響曲を中心に独自の音世界を追求した芸術家であった。この二人は共に1865年生まれ。ドイツ・オーストリア系とも、またフランスやロシアの作曲家の交響曲とも一味や二味も違った装いをみせる二人の交響曲。本日はそのうちニールセンの、最もよく知られた交響曲である《不滅》を取り上げる。ニールセンの生涯はあまりよく知られているとは言えないので、少しその辺りを述べてみることとする。
今日のゲストは木管のあの人!! ジャカジャカジャカジャカ…………ジャン!
クラリネットの近藤さんです!!!
ヾ(^▽^)ノワーイ!!
お仕事が大変お忙しい時期なのだそうです。が、空気を読まずにインタビューしちゃいました!!!
今日もゲストをお迎えしています。
(きみまろ風に読んでください。)千葉フィルは、この人無しでは語れない!細やかな気遣いと穏やかな口調で団を取り仕切り続けて〇十年、総務の玉川さんです!!パチパチパチ…
玉川さん描くの難しかったっす!実物はもっとかっこいいんです。スミマセン!!ちなみにパーカッションです。
今日は、ビックなゲストに登場していただきます。もちろん憧れのあの人!我らがコンミスです!!ヾ(o´∀`o)ノワァー!!!では、早速インタビューしてみたいと思います!!
第1主題として単一の動機だけを提示する典型が〈運命〉だとするなら、ニールセンが採ったのは、複数の動機を主題群として提示する正反対の方法。①②③の順に提示される第1主題群は何れも明朗で、力強さに溢れている。様々な生き物が、それぞれの個性を主張しながら自由活発に飛び跳ねているような主題群の在りかたこそは、自然界本来の姿であり、『何者も滅ぼし去ることのできない不可侵の理想郷』として、最初に示したということだろう。
ロシア革命を避けロシア国外を転々としていたプロコフィエフだったが、1930年代半ばに帰国。これ以降、プロコフィエフはソヴィエト連邦の代表的な作曲家として活躍する。ロシア国外にいた時代から、プロコフィエフはバレエ・リュス(ロシアバレエ団)のディアギレフとの共同作業などによってバレエなどの舞台作品を手がけていたが、それらの経験がソ連帰還後に大きく生きる形となった。