その交響曲は誰がために
「心配することはない。私がいないと始まらないのだから!」その日、コンサート会場の前は混雑でごった返していた。その日の演奏会のチケットは完売だったが、諦めきれない人々が大勢押し寄せ、ちょっとした混乱状態に陥っていた。チケットを持っていた人でもコンサート会場の入り口に辿り着けず、そんな人の声を聞いての言葉だったのだろう。そのルーマニア訛りのドイツ語を耳にして、人々はその声の主を見た。そこにいたのはセルジゥ・チェリビダッケ。本日の演奏会の指揮者である。混乱は治まり、人々は指揮者の為に道をあけ、チェリビダッケはコンサート会場の中に消えていった。そして定刻より少し遅れ、演奏会が始まった。その日の演奏会はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の特別演奏会、指揮者はセルジゥ・チェリビダッケ。曲はソ連の作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチがつい5年前に完成させた交響曲第7番であった。その交響曲を、人々は捧げられた街の名を取って《レニングラード》と呼んでいた。
序奏部ラルゴ3/4拍子の冒頭、チェロ4人+ヴィオラ2人の重奏で室内楽的に奏される①は、ロシア正教会の讃美歌〈主よ、汝の民を救いたまえ〉。ナポレオン軍が攻めてきた頃のロシアには後述のように近代的な意味での国歌は存在しなかった。ロシアでそれに相当するのはムソルグスキーが〈ボリス・ゴドゥノフ〉の戴冠の場で、民衆が「皇帝に栄光あれ!」と歌う合唱に用いた伝承の旋律(一般的には〈皇帝讃歌〉として知られる)と、この①だ。①はプロコフィエフが16世紀に絶対君主として君臨したイワンⅣ世を描いた映画音楽〈イワン雷帝〉でも、恐怖政治の象徴だった王直属の親衛隊を描いた場面《オプリーニチキの合唱》で、威圧的な親衛隊の合唱に対して民衆の願いを代弁するかのよう繰り返される。
ドイツのヴェストファーレン生まれの青年キャンディードと、相思相愛の恋人クネゴンデは、一度は結ばれそうになりながら、戦争や略奪など様々な禍に遭遇。世界中の様々な土地で一癖も二癖もある人物と出合い、その都度、それまでの全てを御破算にするような暗転(殺人、宗教的略奪、性的暴力、詐欺など)に巻き込まれていくという、奇想天外なファンタジー。
マスネは自伝において1848年2月20日のことを「運命的な日」として「忘れることが出来ない」と記している。ジュール・マスネは1842年5月12日にフランス南東部のロワール県の中心都市サン・テティエンヌで生まれた。母親がピアノ教師をしており、その母親の手引きで初めてマスネがピアノをさわったのが、冒頭の日のこと。ヨーロッパではナポレオンの没落後に確立されたウィーン体制がちょうど終わりを告げようとしていた頃で、フランスでは2月24日に国王ルイ・フィリップが退位し七月王政が終焉することとなる。そんな嵐の中、少年マスネは初めてピアノに触れたのだった。程なくマスネは抜群の音楽的才能を示すようになり、11歳でパリ音楽院に入学する。オペラで成功していたアンブロワーズ・トマに作曲を師事、21歳でフランス作曲界の登竜門となるローマ賞を受賞。審査員の一人だったベルリオーズが特に熱心にマスネを推したという。同じくローマ賞の審査に加わっていたフランソワ・オーベールはベルリオーズに次のように語ったらしい。「この小僧は、経験を積みすぎないように気をつければ、かなりのところまでゆくだろう」と。オペラの第一作目も好評だった。オーベールの予言はともかく、音楽家として順風満帆な出発であった。
1880年6月、チャイコフスキーは楽譜出版社のユルゲンソン社から一通の手紙を受け取った。そこにはモスクワ音楽院院長のニコライ・ルビンシテインがチャイコフスキーに作曲を依頼したいと考えている、と書かれていた。三つのケースがあり、そこから作曲出来そうなものを書いて欲しい、と。三つのケースとは次の通り。①来年開催されるモスクワ産業博覧会の開会式の為の序曲、②ロシア皇帝戴冠25周年記念式典の為の序曲、③救世主ハリストス寺院開幕の為のカンタータ。
レナード・バーンスタインが慎ましくもささやかな幸せを享受しつつもアメリカ合衆国の最下層に位置する両親の元に生を受けたその頃、リヒャルト・シュトラウスはヨーロッパで名声の頂点にあった。日本の西洋音楽黎明期を締めくくることとなる山田耕筰は、第一次世界大戦が始まる前の時期のドイツに留学し、ベルリンで切り詰めた生活を送っていた。山田は当時、絶頂期にあったリヒャルト・シュトラウスの音楽に強い衝撃を受け、肖像画を部屋に飾るまでとなる。しかし、そのスコアを研究しようにも、スコアを入手することさえ留学先で困窮を極める山田にとっては難しいもので、まさにリヒャルト・シュトラウスは憧れの人、遥か山の上の存在だった。
バーンスタインはモスクワにいた。当時、常任指揮者を務めていたニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の世界ツアーでソビエト連邦を訪れた為である。この時のニューヨーク・フィルのソ連滞在は3週間、全18回にもおよび演奏会が企画されていた。当時、アメリカ合衆国とソビエト連邦はまさに冷戦の真っただ中にあり、芸術と言えども、当然、そういった政治の動向と無縁ではいられなかった。このニューヨーク・フィルのツアーも平和友好をうたった文化使節だったにも関わらず、両国の国威発揚の場として使われていた。
この交響曲の辿ることになった不幸な運命については、どんな伝記にも必ず書かれている。完成2年後の1897年(24歳)にペテルブルグで行なわれた初演は、重鎮グラズノフの指揮で行なわれたのにも関わらず大失敗。酷評の嵐は若きラフマニノフを作曲不能のノイローゼに陥らせ、精神科医の治療を受けて回復。ピアノ協奏曲の第2番の作曲で立ち直ったというのだ。