「進歩主義者ブラームス」
ブラームスの音楽は、ブラームスの存命当時から今に至るまで、概ね保守的な音楽だと思われている。特に後世の作曲家は、「新しいこと」が作品の大きな判断基準になることが多い現状も相まって、ブラームスのことをよく言う人はあまりいない印象がある。その数少ない例外が、アーノルト・シェーンベルクである。12音音楽の創始者であるシェーンベルクは20世紀音楽の祖と言える人の一人だが、そのシェーンベルクはブラームスのことを「進歩主義者」として賞賛しているのだ。
演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。
ブラームスの音楽は、ブラームスの存命当時から今に至るまで、概ね保守的な音楽だと思われている。特に後世の作曲家は、「新しいこと」が作品の大きな判断基準になることが多い現状も相まって、ブラームスのことをよく言う人はあまりいない印象がある。その数少ない例外が、アーノルト・シェーンベルクである。12音音楽の創始者であるシェーンベルクは20世紀音楽の祖と言える人の一人だが、そのシェーンベルクはブラームスのことを「進歩主義者」として賞賛しているのだ。
ラフマニノフが1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にグラズノフの指揮により初演されたものの散々な酷評をうけ、その失敗により神経衰弱になり自信喪失し、作曲ができない状態なったエピソードはよく知られている。作曲家としての復活に医師ニコライ・ダーリ(1860-1939)が寄与したということになっている。その治療の詳細と評価について私見をまじえて紹介してみたい。
セルゲイ・ラフマニノフは1873年にロシアの貴族の家に生まれた。ラフマニノフの曾祖父や祖父は音楽に造詣が深く、特に祖父アルカーディは見事なピアノの腕前を持っていたという。ロシアにピアノがもたらされたのは19世紀に入ってからのことだが、アルカーディ・ラフマニノフはロシアで最初にピアノ演奏をものにした世代の一人、ということになる。この祖父ほどではなかったが、父親もピアノを演奏した。しかしこの父親、典型的な貴族の御坊ちゃまというべきか、気前良く施しを与えたり投機に失敗したりで、貴族ラフマニノフ家の莫大な財産はこの父親の代であっという間に底をついてしまった。
40年に米国に亡命し、ニューヨークに居をかまえたバルトークの困窮を救うべく、同郷の指揮者ライナーやヴァイオリニストのシゲティが資金援助の道を探り、43年8月、ボストン響の指揮者だったクーセヴィツキーが新作を委嘱。亡命以後、作曲から遠ざかっていたバルトークは、彼としては久しぶりとなる大管弦楽のための大作を10月までの2ヶ月足らずの間に書き上げた。
ブラームスの〈2番〉やマーラーの〈3番〉のように、作曲家が大自然の情景から新たな刺激を受け、それが明朗な作品として実を結ぶ例がある。ヨーロッパでは6~8月の長い夏休みを風光明媚な避暑地で過ごすため、それが作曲家に新たなインスピレーションを与えるのだ。ドヴォルザークの場合はこの〈8番〉がそれに該る。かねてから避暑地として気に入っていたボヘミアのヴィソカーに別荘を建てたドヴォルザークは、1889年(48歳)の夏から秋にかけて作曲し11月8日にプラハで完成。翌90年2月2日、自らの指揮による同地での初演も大成功を収めた。
先ずは『蛇を殺すための歌』というタイトルそのままの標題音楽として聴くのが正解。舞台は、子牛を一呑みにしてしまうアナコンダやニシキヘビのような大蛇、もしくはコブラやガラガラ蛇のような毒蛇が棲息している熱帯のジャングル。裸同然の原住民達が集まって炎を囲み、祈祷師の呪術的な言葉を全員で繰り返しながら奇声をあげ、石斧を手に『蛇狩り』に出かけて行く情景が目に浮かぶ。