|
1911~15年2月8日作曲。15年10月28日、シュトラウス指揮のドレスデン王立歌劇場管弦楽団によりベルリンで初演。初演がベルリンになった理由は以下のとおりだ。 「ベルリンのフィルハーモニー大ホールでの演奏のために、私は116人の奏者を必要と しています。つまり木管が倍の人数、即ちあと8人とハープ4台(スコア上は2パート)です。この8人とハープ奏者2名は、私自身がベルリンで見つけることができるでしょう。しかし必要な弦のエキストラは、ドレスデンから連れていきたいのです。つまりドレスデンで総勢107名の奏者を集めて欲しいのです。 (15年6月19日の手紙) |
曲目解説
演奏会プログラムの曲目解説からの抜粋です。
マスネ 組曲『アルザスの風景』の楽曲解説
Ⅰ・日曜の朝 アレグレット・モデラート 二長調 4/4拍子
村の静かな朝の情景。クラリネットとフルートによる主題①は、いかにも長閑な農村地帯のそれだ。オーボエによる②は、①の3連符を受け継いでいる。クラリネットによる新たな主題③aを契機に、曲は休日らしい『市の賑わい』に発展し、① ②それぞれの舞曲的律動感がトゥッティで強調される。
バーンスタイン 〈キャンディード〉序曲の楽曲解説
ドイツのヴェストファーレン生まれの青年キャンディードと、相思相愛の恋人クネゴンデは、一度は結ばれそうになりながら、戦争や略奪など様々な禍に遭遇。世界中の様々な土地で一癖も二癖もある人物と出合い、その都度、それまでの全てを御破算にするような暗転(殺人、宗教的略奪、性的暴力、詐欺など)に巻き込まれていくという、奇想天外なファンタジー。
R.シュトラウス (1864~1949) アルプス交響曲
頂上に立つリヒャルト・シュトラウス
レナード・バーンスタインが慎ましくもささやかな幸せを享受しつつもアメリカ合衆国の最下層に位置する両親の元に生を受けたその頃、リヒャルト・シュトラウスはヨーロッパで名声の頂点にあった。日本の西洋音楽黎明期を締めくくることとなる山田耕筰は、第一次世界大戦が始まる前の時期のドイツに留学し、ベルリンで切り詰めた生活を送っていた。山田は当時、絶頂期にあったリヒャルト・シュトラウスの音楽に強い衝撃を受け、肖像画を部屋に飾るまでとなる。しかし、そのスコアを研究しようにも、スコアを入手することさえ留学先で困窮を極める山田にとっては難しいもので、まさにリヒャルト・シュトラウスは憧れの人、遥か山の上の存在だった。
マスネ (1842~1912) 組曲第7番 『アルザスの風景』
嵐の中の出発
マスネは自伝において1848年2月20日のことを「運命的な日」として「忘れることが出来ない」と記している。ジュール・マスネは1842年5月12日にフランス南東部のロワール県の中心都市サン・テティエンヌで生まれた。母親がピアノ教師をしており、その母親の手引きで初めてマスネがピアノをさわったのが、冒頭の日のこと。ヨーロッパではナポレオンの没落後に確立されたウィーン体制がちょうど終わりを告げようとしていた頃で、フランスでは2月24日に国王ルイ・フィリップが退位し七月王政が終焉することとなる。そんな嵐の中、少年マスネは初めてピアノに触れたのだった。程なくマスネは抜群の音楽的才能を示すようになり、11歳でパリ音楽院に入学する。オペラで成功していたアンブロワーズ・トマに作曲を師事、21歳でフランス作曲界の登竜門となるローマ賞を受賞。審査員の一人だったベルリオーズが特に熱心にマスネを推したという。同じくローマ賞の審査に加わっていたフランソワ・オーベールはベルリオーズに次のように語ったらしい。「この小僧は、経験を積みすぎないように気をつければ、かなりのところまでゆくだろう」と。オペラの第一作目も好評だった。オーベールの予言はともかく、音楽家として順風満帆な出発であった。
バーンスタイン (1918~1990) 〈キャンディード〉序曲
1959年8月、モスクワ
バーンスタインはモスクワにいた。当時、常任指揮者を務めていたニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の世界ツアーでソビエト連邦を訪れた為である。この時のニューヨーク・フィルのソ連滞在は3週間、全18回にもおよび演奏会が企画されていた。当時、アメリカ合衆国とソビエト連邦はまさに冷戦の真っただ中にあり、芸術と言えども、当然、そういった政治の動向と無縁ではいられなかった。このニューヨーク・フィルのツアーも平和友好をうたった文化使節だったにも関わらず、両国の国威発揚の場として使われていた。